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丸屋 武士(著) |
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 12月18日午前、ジェームズはホワイトホール宮殿をはしけで出発してロチェスターに向かっていた。ロチェスターでは比較的自由に過ごしたジェームズは、12月23日夜イングランドをあとに英仏海峡を渡り、25日カレーに上陸した。先にフランスに逃れた妻子はパリ近郊サンジェルマン宮殿を提供されていたが、ここでジェームズに二十数年ぶりに再会した従兄弟のルイ14世は、サンジェルマンを自分の家だと思うようにと言ってくれた。ジェームズは王位についてから4年たらずで、亡命中の少年期に兄チャールズと一時期を過ごしたこの宮殿で再度の亡命生活を送ることとなった。 12月18日午後、ウィリアムはロンドンに残っていたイギリス兵を遠ざけ、軍事的な危険をなくした上でロンドンに到着した。国民感情を配慮してロンドン入りする部隊の先頭はオランダから連れてきたイギリス人部隊とした。帽子にオレンジ色のリボンを巻いたり、棒の先にオレンジを突き刺したりして歓迎するロンドン市民に対しても素っ気なく、ウィリアムはナイツブリッジからロンドン中心部の街路を避けてセントジェームズ公園の中を通ってセントジュエームズ宮殿に直行した。ウィリアムの寵を得ようと表敬訪問する貴顕に対しても「全くいい顔をしない」という、いつもの癖をもって応じ、もう少し愛想よく、陽気に応対されるかと期待していた人々をがっかりさせたという。いずれにしても1688年12月18日をもってウィリアム3世のロンドン入城は完結した。
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1668年2月3日、事が成就したテンプルとデ・ウィットは17歳のオレンジ公ウィリアム(テンプルがウィリアムに会ったのはこれが2度目)と共に、デ・ウィットの部屋で、条約調印をささやかに祝って、食事を共にしながらカードやダンスに興じて時を過ごした。三人とも余り酒は飲まない。翌日デ・ウィットとテンプルはテニスの試合を楽しんだ。国家の最高責任者と外交官によるテニスの試合の嚆矢となったか、200年後のアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが外交官相手のテニスを気晴らしの手段としたことはよく知られている。スポーツ万能のデ・ウィットに対して、テニスに明け暮れたせいか、ケンブリッジ大学エマヌエル・カレッジを卒業できなかったテンプルのテニス試合のスコアはどのようであったのか。1668年6月22日、ロンドンに帰って来たテンプルは国王チャールズ2世や廷臣たちから大手柄を立てた人物として歓迎された。友人達はテンプルに褒美を要求した方がいいと助言したが、彼は金銭も爵位も一切要求しなかった。そういう人物であった。そしていつも金には困っていた。 |
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テンプルの肖像 『SIR WILLIAM TEMPLE』 The Man And His Work BY HOMER E.WOODBRIDGE KRAUS REPRINT CORPORATION より |
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