丸屋 武士(著)
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ロンドン セントポールズ大聖堂
(1985/11 撮影)
(ロンドン大火の後クリストファー・レンが設計)
O.B.E.(大英帝国勲章)礼拝堂に掲げられた
イギリス王族の紋章旗
 こう災難が続けざまに襲って来ては、イングランドに厭戦気分が蔓延するのは無理もないことであった。宣戦布告もせずに、同じプロテスタントのオランダに戦争を仕掛けたことに対してバチが当たったように感じた者もあろう。フランスの海賊(私掠船)によるイングランド商船襲撃もイングランドの貿易に大きな打撃を与えた。厭戦気分はオランダ側にもあった。海上戦ではデ・ロイテル率いるオランダ海軍が盛り返したが、陸上において思わざる破綻があった。東隣のミュンスター司教領の司教フォン・ゲーレンがイギリスに指嗾されその資金援助を得て1万8千の兵を募り、1665年9月オランダに侵入した。前シリーズで言及した経緯により、無総督時代となったオランダは、地上軍は実質的に解散してしまっていたからオランダの混乱は大きかったが、ここでまた用意周到のデ・ウィットの打っておいた手が効いた。デ・ウィットはフランスのルイ14世が親政に乗り出した直後の1662年4月、フランス、オランダ同盟条約を締結した。この時ハーグ駐在フランス大使デストラードは買収の大家をもって任じており、多くの共和派(議会派)の政治家を買収したが、デ・ウィットをフランスの傀儡にすることはできなかったという。祖国オランダの為に同盟条約を結んだのであり、金で祖国を売るような人物ではなかった。そしてその同盟条約を基にルイ14世が差し向けたフランス軍によってミュンスター司教軍は簡単に追い払われてしまった。
ロンドン セントポールズ大聖堂
(1985/11 撮影)
(ロンドン大火の後クリストファー・レンが設計)
O.B.E.(大英帝国勲章)礼拝堂に掲げられた
イギリス王族の紋章旗
 本格的開戦から2年たった1667年初夏、チャールズ2世の講和申し入れにオランダが応じて、ブレダにおいて和平会議が開始された。該博な知識、用意周到な配慮、説得力溢れる雄弁をもって「不世出の政治家」と称えられるデ・ウィットはこの第2次英蘭戦争の始末においてその真骨頂を発揮した。ブレダでイギリスとの和平会議が続いている中で、デ・ウィットはかねてから胸奥にあったテムズ河口域襲撃の計画を実行に移したのである。デ・ウィットの狙いはイングランド海軍の本拠地、テムズ河口域に注ぐメドウェー川沿いの主要基地チャタムであった。6月12日と翌13日、軍監(軍目付け)として乗り込んだデ・ウィットの兄コルネリウス・デ・ウィットを同乗させメドウェー川を遡上したオランダの小艦隊は、イングランドの大型艦7隻を砲撃によって使用不能にした上、戦利品としてジェームズの乗艦でもあったロイヤル・チャールズ他1隻の大型艦を分捕って帰った。イギリス本土が外敵に襲撃されたのは1066年のノルマン征服以来であり、この事件は「チャタムの屈辱」としてイギリス人に長く記憶された。これに続いてテムズ川も封鎖してテムズ河口に無気味に居座るオランダ艦隊の姿にロンドンの人々は恐怖に駆られたという。東京湾に侵入した外国軍艦が荒川河口や多摩川河口で大砲をぶっ放すような効果を与えたに違いあるまい。チャールズは堪らず、1667年7月ブレダ条約の調印によってイギリスとオランダは講和した。イングランドの航海法は緩和され、旗を下げて敬礼することは「英国の海において」と限定されたのである。

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