丸屋 武士(著)
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(1985/11 撮影)

 12月10日未明、ジェームズは王妃と王子をフランスへ逃し、翌11日未明自らもホワイトホール宮殿を抜け出して、その日の夜フランスへ向けて出航しようとした。ところが1本マストの小船が準備にもたついているところを、不審者を捜査していた一団に見咎められてしまった。変装していたジェームズが身分を明かしたにもかかわらず手荒に扱われ、身柄を拘束されてしまった。ジェームズ逃亡の知らせを聞いたウィリアムは遠征軍の行き先を北方オックスフォードではなく、よりロンドンに近いウィンザーに変更して機嫌が良かったという。電信も電話もない時代であるから、このあたりから人(あるいは人馬というべきか)の動きは昼夜を分かたぬ慌しいものとなる。12月11日午後、国王の逃亡を受けて22名の貴族とカンタベリー大司教、ヨーク大司教と5名の主教という30名前後の貴顕がウエストミンスターではなくロンドン市庁舎に集合した。永田町や霞ヶ関ではなく、非常事態ということで東京都庁に集まった暫定政府とでも呼ぶべき集まりであった。本シリーズ5で説明したように、王族を除く宮中席次は、2005年の今日においても、第1位カンタベリー大司教、第3位ヨーク大司教、第4位が首相である。バッキンガム宮殿等で王室主宰の晩餐会等があればブレア首相は4番目の席につくことになる。話を元に戻すと、さしずめ狐や狸の運動会のような貴顕30名のこの集まりでは、本シリーズ11で紹介した「オレンジ公の宣言」が逆手に取られた。ウィリアムに施政を渡すのではなくて、おこがましくも「自由な議会の開催をめざすウィリアムの努力に協力する」という「ギルドホール宣言」が発せられたのである。ところがこの時、歴史的にも王権とは距離を置いてきた(オレンジ家と睨み合ってきたアムステルダム市議会のように)ロンドン市議会が、ウィリアムにロンドン来訪を請願する、というかなり踏み込んだ呼びかけを発した。12月13日、ヘンレーまで進軍して来たウィリアムは、ロンドン市には招待に対する丁重な礼を言う一方で、「ギルドホール宣言」をもたらした貴族や大司教たちには、あてつけがましく、ロンドン市から招待を受けたので数日のうちにはロンドンにはいると告げたという。
 1665年5月、イングランド海軍の最高責任者、海軍卿、王弟ヨーク公ジェームズは、自ら98隻の艦隊を率いて出撃した。6月3日未明、ローストフト沖でオランダ艦隊113隻との交戦が始まり、夕方までにオランダは20隻を失い、死傷者及び捕虜は5000に達した。イングランドは死傷者900、失われた艦は1隻という、3次に渉る英蘭戦争におけるイングランド海軍最大の勝利となった。15歳で兄と共に国を出てからジェームズはフランス陸軍の将校として戦場に出たばかりでなく、クロムウェルを憚(はばか)るフランス朝廷の意向によって、フランス退去を余儀なくされ、スペイン軍でも将校として働くという屈辱を味わった。ローストフトの凱旋提督となったこの時のジェームズの得意は如何ばかりであったか。旗艦ロイヤル・チャールズの後甲板で指揮していたジェームズのわきで、3人の側近が1発の砲弾に薙ぎ倒されるような激戦であった。
ケンブリッジ風景 (2004/12撮影)

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