丸屋 武士(著)
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イングランドの田園風景
(1985/11 撮影)
 もう一度第2次英蘭戦争を振り返って見ると、ルイ14世はイギリスに対して、宣戦布告し、オランダに侵入したミュンスター司教軍を簡単に追い払ってくれた。オランダとの同盟条約を根拠としての行動ではあったが、デ・ウィット率いるオランダと同盟を結んだルイの目的は、スペイン領ネーデルラント(現ベルギー)が隣接のオランダと同盟を結ぶことを恐れ、今や落日の超大国、宿敵スペインに対抗するためであった。そして8歳年上の従兄弟チャールズ2世が、共和制オランダを打倒し甥のウィリアム3世と手を組んでイングランドがより強大になることをもっと恐れていた。したがってこの戦争でイギリスを脅かしたのも、共和制オランダが負けない程度にという限定つきであり、間もなくスペイン領ネーデルラントを奪取するのがルイの当面の目標であった。王権神授説の体現者でありフランスのただ一人の主権者として「領土を拡大することは主権者に最もふさわしい、最も気持ちのよい仕事である」と広言していたルイは、何よりも戦争に「栄光」を求めていた人物である。ルイの軍政改革については本シリーズ8で言及したので省略するが、ヨーロッパで突出した軍事大国となりつつあったフランスのルイは、絶対王制の権化、正統(カソリック)の守護神として、北海道より一回り小さく、九州よりやや大きい程度のオランダが異端(プロテスタント)を信奉し、海上(世界)貿易の覇者となっていることは許しがたいことであり、この小しゃくな「あきんどの国」オランダをやがて踏み潰す肚であった。直前(1665年)登用した財務総監コルベールは周知のように重商主義(マーカンティリズム)を標榜し、それは取りも直さず世界貿易の覇者オランダとの衝突コースをまっしぐらに進むことであった。
1670年頃のフランス軍の制服 (シリーズ8参照)
 第2次英蘭戦争の和平会議が始まった頃(1667年5月)、ルイ14世は王妃の相続権を名目としてスペイン領ネーデルラント侵略を開始した。いわゆる遺産帰属戦争の開始であり、オランダは同盟国フランスが恐ろしい隣国であることを改めて認識した。7月には前述したようにブレダ条約によって第2次英蘭戦争は終わっていた。しかしながら、毎年どこかで戦争が行われ、きのうの友は今日の敵という状況の17世紀ヨーロッパにおいては、英蘭双方共に戦争終結後の周辺環境整備(同盟関係の締結等)が当然の急務であった。優柔不断、亡命生活で苦労し過ぎたせいか、「どちらにもいい顔をする癖」を持った国王チャールズ2世を戴くイングランドも例外ではなかった。

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