丸屋 武士(著)
(2005年3月)
1         10 11 12 13
(1985/11 撮影)

  1688年11月23日の夜、自らの陣営から軍の最高幹部ジョン・チャーチル陸軍中将が脱走して、翌朝ウィリアム3世の陣営に投降した後のジェームズ2世周辺の動きは省略する。いずれにしても2万余りの軍勢を率いているウィリアムに戦いを仕掛け得るイングランド情勢ではないことが、ほぼ露呈されてきた。ジェームズは本文でも言及したように決して流血を恐れる臆病な軍人でないことははっきりしているが、国王として兄チャールズのような狡猾さ(政治的センス)に欠け、自らのカソリック信仰を隠し通せなかった。300人余りのプロテスタントを火あぶりの刑に処したブラッディ・メアリー(エリザベス1世異母姉メアリー1世)以来、カソリック信仰はイングランド国王たらんとする者にはタブーであった。兄の在世中は抑制していた自分を抑え切れなくなったジェームズは、そのことによって自らの墓穴を掘った。11月26日夕方、宿営地ソールズベリーからロンドンに戻って来たジェームズは次女アンの顔を見ることができなかった。本シリーズ8でも言及したチャーチルの妻セアラと共に、アンは剣を片手の元軍人、ロンドン主教コンプトンに護衛されて北方へ(ウィリアム勢力のいる方へ)避難した後であった。多くの重臣に背かれ、チャーチルのような軍人にも寝返りを打たれた挙句に、次女アンにも見限られて、ジェームズが対決しなければならない相手は甥であり自らの長女メアリーの夫であるウィリアム3世であった。シェークスピアが生きていたらどんな戯曲に仕立てたであろうか。
 ジェームズはハリファックスら4人の使者をウィリアムのもとへ派遣した。12月8日朝ハンガーフォードの宿営の自室でジェームズからの使者ハリファックス、ノッティンガム、ゴドルフィン、シドニーと会見したウィリアムは、その席に既に自分に帰順している貴族を同席させた。ついこの間までジェームズの宮廷に共に仕えていた彼等はどんな顔をしてお互いを見つめあっていたのか。ウィリアムは、帰順した者の顔触れによって仲介役4人を威圧する一方、寝返った者をあと戻りできない立場に追い込んだのである。その上、したたかなウィリアムは、ジェームズからの提案については、自分に帰順しているイングランド貴族に下駄を預けて検討させるように仕向けた。自らの要求は決して口にせず、相手に下駄を預けた形に追い込んで、自分の意志を通す、という若い頃からのウィリアムの得意技というか戦法であった。空手で言えば、詰め蹴りで相手を追い込み、相手が堪らず出てきたところを後の先で決める、という戦法である。
 シリーズ8でも述べたように17世紀ヨーロッパで一年中戦争がなかったのはわずか7年であったという。残りの93年はどこかで戦争が行われていた。第1次英蘭戦争が終わった後もオランダはスウェーデンとデンマークの争い等に巻き込まれ(戦時)財政は厳しかったが、デ・ウィットは国政の責任者として巧みに凌いだばかりでなく、第1次英蘭戦争を教訓として海軍力(主として大型艦の建造)を着々と増強していた。
イングランドの田園風景
(1985/11 撮影)
ロンドンから列車でどの方角に向かっても、
30分もしないうちにこのような風景に出会う

1         10 11 12 13