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丸屋 武士(著) |
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ライデン市 城塞跡 奥がセントピーター教会 (2004/12撮影) |
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片や万能のスポーツマンでもあったデ・ウィットは大敗を喫した艦隊に自ら出向いて、網記粛正を断行し、屈することなく再度討って出る決意と共に艦隊を立て直した。8月にはトロンプ(オランダ国民から「敬愛する父」と呼ばれたあのトロンプの息子)に代わって冷徹なデ・ロイテルがオランダ艦隊を指揮することになった。建艦(造船)能力断トツ一番のオランダは大型艦(80砲門艦、70砲門艦)を急ピッチで建造し、砲そのものも、より強力な規格を持ったものになった。戦法に関しても検討が加えられ、接舷して乗り込み敵艦を奪取する従来の戦法を改め、イングランドと同じように3個戦隊が戦列を組み、強烈な片舷斎射を浴びせるという近代的戦法の採用が決定された。オランダの戦意は再び高まり、高圧的な講和条件を用意していたハーグ駐在イングランド大使ダウニング(現在の首相官邸ダウニング街10番地は彼の名に因む)は、それを呈示するどころか、逃げるようにハーグを去ったという。 |
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ハーグ市 ビネンホフ宮殿 (2004/12撮影) |
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この頃から潮流というか、風向きが変わり、イギリスに対して思わざる災厄が襲いかかって来た。1665年からロンドンに腺ペストが流行し始め、9月には死者が1万人に達したのである。イングランド宮廷はロンドンを避けてハンプトン・コート、ソールズベリーそして最後にはオックスフォードへと疎開を余儀なくされ、流行が下火になってようやく翌1666年2月、ロンドンのホワイトホール宮へ戻って来た。この間、経済や行政機能はマヒ状態に陥り、最終的には人口46万のロンドンにおける死者は7万に近いと言われている。悪い時には悪い事が重なるもので、同じく1666年1月にはルイ14世のフランスが1662年にデ・ウィットのオランダと結んだ同盟条約を根拠にイングランドに宣戦を布告した。これはイングランドに大きな影響を与えることになった。揺籃期のフランス海軍を温存するつもりのフランスではあったが、フランス艦隊の所在そのものが、無線等近代的通信手段のないこの時代においては、(オランダ艦隊との合流への警戒をも含めて)、イングランド艦隊の動きを実戦以上に大きく制約することになった。更にこの年(1666年)9月2日の日曜日に、ロンドンに大火が発生した。9月7日ようやく鎮火したこの火災で1万3000の家屋が焼失し、10万人以上の人々が家を失って、冬を前に路頭に迷うことになった。本シリーズ5で紹介した紋章院(Collge of Arms)もこの時焼け落ちてしまった。赤レンガ造り4階建てで、17世紀イギリス建築の特徴をよく伝えているとされる現在の建物はこの火事の後1671年から17年かけて完成されたものである。 |

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