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丸屋 武士(著) |
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デルフト市で見かけた紋章 (2004/12撮影) |
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話を元に戻すと、1660年4月4日、内乱期の反国王派の言動については不問に付すことなどを約束した「ブレダ宣言」がチャールズによって発せられた。電信も電話もなかった時代であるから、イングランド議会(国王派が多数を占めていた)は5月1日、ブレダ宣言を読み上げた上で承認し、「王政復古」を宣言した。身分を回復したチャールズのブレダにおける「亡命宮廷」にはイギリス人ばかりでなく、祝意を表してオランダ人が続々と訪れ、チャールズはオランダの首都ハーグ市からも招待を受けた。ブレダからヨットでデルフトに着いたチャールズとジェームズは、この年9歳になった甥のウィリアム3世に迎えられ、六頭立ての馬車に同乗してハーグへ向かった。オランダ政府の仕立てたきらびやかな72台もの馬車行列を沿道の群衆が歓声で見送ったという。間違っても土下座などをして頭を下げている者は一人もいなかったはずである。チャールズは29歳、弟ジェームズは26歳になっており、10年余りの間、フランス、オランダ、ベルギーなどを転々とした波乱に満ちた放浪の旅はついに終わり、イングランド国王チャールズ2世、王弟ヨーク公(Duke of York)ジェームズとして5月25日、晴れて祖国の土を踏んだ。 |
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イングランドの田園風景 |
(1985/11 撮影) |
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ところが、共和制から王政に変わったイングランドのオランダに対する敵愾心は変わるどころか益々強くなった。その年(1660年)も暮れないうちにイングランド議会(仮議会)は共和制時代の航海条例をさらに強化した航海法を成立させた。まず西インド諸島や北アメリカ植民地で、次いで西アフリカで英蘭の軍事衝突が始まった。1664年9月1日、北アメリカのニューアムステルダムが3隻のフリゲート艦に乗って襲来したイングランド人に占領され、その名もニューヨークと改められた。そして11月、西アフリカのイングランド征服地がオランダに奪還されたことが伝わると、国王チャールズ2世は全イングランドの船舶に対してオランダ商船を襲撃する許可を与えた。エリザベス1世時代から海賊が大活躍したイングランドお得意の伝統復活というべきか。正式な宣戦布告もなしに第二次英蘭戦争は始まり、襲撃され積荷を奪われるオランダ商船が相次いだ。翌1665年1月、東地中海から帰還するオランダ商船団が奇襲攻撃を受け、ついにデ・ウィット率いる「あきんどの国」オランダは開戦を決定する。イングランドも3月4日になって宣戦布告をしたが、二次、三次の英蘭戦争のどちらも、まず不意打ちをくらわせて相手にダメージを与えておいてから宣戦布告するという、英国紳士にとっては格好の良くない戦争もここから本格化した。 |

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