丸屋 武士(著)
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ウィリアム・テンプルがテニスに明け暮れ、卒業しなかった(できなかった)ケンブリッジ大学エマヌエル・カレッジ
入口より正面中庭を臨む
(2004/12撮影)
 そんな折、1667年9月、誤解を受けないように正式に休暇を取った旅行者として、ブリュッセル駐在イングランド公使ウィリアム・テンプルが3ヶ月前までの敵国オランダに現れた。テンプルの妹マーサ(ジファード夫人)は結婚して1ヶ月もしないうちに夫を失い、以後テンプル家の家族の一員として外交官テンプルが妻子を伴っては行けないような時にも兄の任地で一緒に暮らしていた。その妹が、平和条約を結んだばかりの評判の国オランダを見たいと希望したことから、テンプルは妹とオランダ語が使える3人の召使いと共にアムステルダムとハーグを訪れた。ハーグに着いたテンプルは、イングランドの外交官としてではなくあくまで一私人として、オランダ連邦共和国の舵取り役デ・ウィットを訪問した。驚くべきことに、2時間に渉る会談の始めから両者は意気投合して信頼関係を築いたという。この傑出した二人の人物の関係については後に改めて言及したい。デ・ウィットは英蘭戦争の原因を話題として、駐ハーグイングランド大使としてオランダに対し極めて敵対的であったダウニングを名指しで非難したという。この非公式の席で、何にも増して重要な発言があった。デ・ウィットは、英蘭両国にとって「共通の防波堤」とでもいうべきフランダースの地を保全する為、フランスの動きを阻止する英蘭同盟を提案する大使をイングランドに派遣したい、と述べたのである。10月上旬には任地ブリュッセル(スペイン領ネーデルラント)に戻ったテンプルに対して12月25日、ハーグ行きの訓令が届いた。チャールズ2世はフランスに対して同盟の申し入れをしていたが、それに対してフランスが回答を引きのばし、渋っていることによってイングランドの空気はオランダとの同盟関係構築に前向きになったのである。戦争が終わって半年もしないうちに、「きのうの敵は今日の友」となるような17世紀のヨーロッパ事情であった。
エマヌエル・カレッジの紋章 (2004/12撮影)
 12月30日ハーグに到着したテンプルは1月7日にはロンドンにいた。1月17日、オランダと防衛同盟を結ぶ完全な交渉権を与えられたテンプルが再びハーグ入りした。オランダ側には長年の友好国フランス(形式的にはデ・ウィットとルイ14世が1662年に締結した同盟条約は存続している)から、半年前まで交戦していたイングランドに乗り換えることに懸念もあった。しかしながら、ホラント州議会では1月14日、フランスがあくまでフランドル(スペイン領ネーデルラント)の侵略を続けようとする場合は陸海の全軍をもってフランスにスペインとの和解を強いる、という大変勇ましい決議がなされていた。一方、イングランド議会は半年前に終わった英蘭戦争でイングランドに宣戦布告し、自国の海賊(私掠船)にイングランド商船を掠奪させたフランスに対する反感で一致していた。1月17日の夜テンプルはハーグ駐在スウェーデン大使にもあった。スウェーデンはフランスがヨーロッパの軍事大国として突出し、宿敵デンマークと手を結ぶことを恐れていた。1月19日にはテンプルがオランダ連邦議会に招請されて、英蘭同盟を提案するフランス語の文書を提出し、英語で趣旨説明を行った。世界の外交史に例のない5日間という昼夜兼行の恐るべきスピードで事は運ばれ、1668年1月23日(ラテン語で書かれた)同盟条約は調印された。オランダ連邦共和国憲法が建国以来初めて無視された。連邦議会の慣習や前例が覆(くつがえ)されて、極めて短時間で成立に漕ぎつけたこのプロテスタント三国同盟は、戦術面での実効は別として、何よりも戦争に「栄光」を求めるルイ14世の鼻をあかす結果となった。どっちみち6週間あるいはそれ以上時間がかかると高をくくり、横槍を入れそこなったハーグ駐在フランス大使デストラードは大恥をかき、イングランド全権特使ウィリアム・テンプルの名はヨーロッパ中に轟き渡った。デ・ウィットとテンプルの相互信頼(アンタント)と友情のなせるわざであり、今やヨーロッパ一となった軍事大国フランスの脅威がオランダ連邦議会にも十二分に浸透していた結果と言えよう。

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