丸屋 武士(著)
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 この結婚式の始まるほんの数時間前になってウィリアムはホラント州議会から結婚に対する同意書を受け取るという、際どい一幕があった。生れて物心つく前に「総督」職が廃止されてから十数年の苦節の時を経て、今やウィリアムはヨーロッパ中から畏敬される世襲総督である。しかしながら、ホラント州議会の同意なくしては結婚しないことが年額4万ギルダーの歳費を受け取る条件となっていた為、わざわざ使者をハーグに送って同意を求めていたのであった。これもまた、電信も電話もない時代を象徴する話である。12月4日、ウィリアムとメアリーは堂々とハーグ入りし、歓迎行事を二人してそつなくこなした。ウィリアムの母メアリー(チャールズ1世の長女として10歳の時オランダに輿入れして来た)はオランダ語を学ぼうともせず、高慢な女として嫌われたが、このメアリーは気だての相違か、オランダの民衆に気に入られたようである。二人が挙式したセントジェームズ宮殿でその11年後(1688年12月18日)、500隻余の無敵艦隊に2万1千余の軍勢を引き連れイギリスに乗り込んだウィリアム3世がロンドン最初の夜を過ごすことになるとは、神のみぞ知る、であった。
ハーグ市 ビネンホフ宮殿 (2004/12撮影)
 この後間もなく(1681年)53歳のテンプルは政界を引退し、フランス女性と結婚した長男にシーンの自邸を譲ってファーンハム近くの屋敷を購入、オランダ風の庭園を自ら造営してそこをムアパークと命名した。以前から得意としていた果物の栽培に加えて、あんずやすもも、特にさくらんぼの実を楽しみ、文筆に精を出すという、理想的田園生活を送ることになった。今日も高く評価されている文筆家としてのテンプルのエッセーの殆どはこの時代に執筆されたものである。1685年、チャールズ2世が死去し、王弟ヨーク公ジェームズが新国王に就任したがテンプルとジェームズは没交渉であった。飾り気がなく真っ正直、人を引きつけ魅了する力に溢れ、品性の高いテンプルと深厚な相互信頼(アンタント)を築いていたウィリアム3世は、敢えてイングランド侵攻計画については一言もテンプルに漏らさなかった。テンプルもこの「名誉革命」と称されるようになった「事変」とは距離を置いて無関係でいた。王弟ヨーク公ジェームズにテンプルは王家を割るような企てはしないことを誓っていたからである。イングランド国王となったウィリアムは何度か大事な相談事を持ってムアパークのテンプルを訪問し、両者の信頼関係は不動であった。そのムアパークの屋敷に1689年、妻ドロシーの遠縁に当る22歳の青年ジョナサン・スウィフト(『ガリバー旅行記』の作者となる)が筆耕者として年棒20ポンドで住み込むことになった。10年後1698年1月27日テンプルの臨終を看取ったスウィフトの年棒20ポンドは当時の基準に照らしても安いものであったが、テンプルに2度目の宰相就任の話があった1677年の宰相の値段(前任者コベントリーは1万ポンドを要求)はまた買官制という悪習を象徴するべら棒な値段であった。国王チャールズはその金を半分払ってやってもよいと言ったがテンプルは辞退した。そんな金を貰えば自らの行動の自由を奪われ、自らの将来を抵当に入れることになることがわかっているからである。ハリファックスは冗談として、テンプルが宰相の地位を受けなければシーンの自邸に火をつけると脅したという。名著『大英帝国衰亡史』の著者中西輝政氏が翻訳したテンプルの次の言葉をもってシリーズ14の結びとしたい。「どこの国でも名誉や権力を求める衝動に、富や労力、精神や生命までも注ぎ込もうとする人々がいる。これはふつう国への奉仕とか、公共の福祉のためとかの口実の下におおわれている。しかしほんとうの公務というものは、じつは膨大な労力と心苦を伴うものであるから、善良かつ賢明な人なら、特別に国王によって求められたり、自分以外にはまったく適切な人がいないと思われるときを除いては、自らそれを追い求めたりは決してしないものである。」
 テニスに明け暮れたエマヌエル・カレッジ在学時代からテンプルは「健脚」を誇り、シーンにおいてもムアパークにおいても園芸や文筆活動と共に乗馬と「徒(かち)歩き」、即ち現今流行の「ウォーキング」がテンプルの田園生活を支える4本柱の一つであった。
                      (シリーズ15へ続く)
ハンプトン・コート宮殿の庭園 (2004/12撮影)
1702年2月20日、ウィリアムは毎週通っているハンプトン・コートで乗馬中に、もぐら穴に足を取られた馬から投げ出され鎖骨を骨折した。その日の内にケンジントン宮殿に戻るほど元気であったが3月に入ると政務は執れなくなり、3月8日ついに51歳の生涯を閉じた。
(2005年5月)
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