1672年6月1日、ミュンスター司教軍とケルン選帝候の軍がオランダの東側から侵入し、フランス軍本隊は6月12日、さほどの犠牲もなくライン川の渡河に成功して、次の目標ユトレヒトをめざした。オランダ地上軍4万たらずのうち1万4千を指揮する「大将軍」ウィリアムは、フランス軍の動きを見て、最初の防衛線エイセル川から後退し、ユトレヒトの防衛に向かうこととなった。ところがオランダ各州は自州を守るために提供している軍がユトレヒト市、ホラント州の防衛に回ることを嫌って、フリースラント州、オーヴァーエイセル州、フローニンゲン州の部隊はそのままエイセル川防衛線の守備に残ることになって、ユトレヒト防衛に回るウィリアムの兵は9000たらずに減ってしまった。おまけに、ウィリアムがユトレヒトに着いてみると、フランス軍に恐れをなしたユトレヒト市民が、市の城門の鍵を渡さず、ウィリアム軍の入城を拒絶した。食糧もないウィリアム軍は味方の城壁の外に2日も野営を強いられる破目に陥った。味方のはずであり、助けねばならないユトレヒト市での時間の無駄をやめ、ウィリアムはさらに後退して防衛線を設定することになった。何とも情けない、こういう体たらくが21歳のウィリアムが支えねばならない祖国の実態であった。結局6月23日ユトレヒトはフランス軍の手に落ち、6月30日、ルイ14世は勝ち誇ってユトレヒトに入城した。フランス軍侵入以来、オランダ国内は疎開(避難)する住民で大混乱となり、国家がこのような破目に陥ることを結果として防げなかった連邦共和国の最高責任者ホラント州法律顧問デ・ウィットに対する衆民の怒りは激烈なものとなっていった。6月21日、ついにデ・ウィットが酔漢に襲われて重傷を負うという事件が起こり、オランダという国にとって正に危急存亡の時に国政の責任者が数週間も公務を離れるという異様、奇妙な事態となった。ここに至り、ついに連邦議会は最後の手段−洪水戦術の採用を決議した。圧倒的な侵略者を防ぐためのオランダ伝統の戦術、まさに奥の手である。運河の水門を開き、川の堤防を決壊させることで、ホラント州の周辺は帯状に水に覆われた。侵略者を防ぐことはできるが、農地や町を失うことにもなり、戦闘とは別の形で国土を失うことであった。農地を守るために武装した農民が抵抗することもあり、兵を使って水門を開き、堰を切る作業が行われてウィリアムの防衛線はこの洪水線(ウォーター・ライン)ということになった。 |