丸屋 武士(著)
(2005年5月)
1         10 11 12
ハンプトン・コート宮殿 (2004/12撮影)
イギリス国王となったウィリアム3世は幼時から喘息持ちであったせいで、スモッグ(家庭で使用する石炭の煤塵による)に汚れたロンドン中心部を離れたハンプトン・コート宮殿が気に入りメアリーと共に暫く(半年間?)ここを住居とした。
 テンプルとデ・ウィットの誠意と善意の産物であるプロテスタント三国同盟の成立によりエクス・ラ・シャペルの和約締結(1668年5月)の形で停戦がもたらされ、ルイ14世のスペイン領ネーデルラント(現ベルギー)侵略は一担は阻止された。昼夜兼行の5日間という前代未聞の迅速なプロセスを経て調印されたこの三国同盟によってシリーズ13で述べたように特命全権大使(ブリュッセル駐在イングランド公使)ウィリアム・テンプルの名はヨーロッパ中に鳴り響いた。だが煮え湯を飲まされたルイ14世はただちに巻き返しを図った。ドーヴァーの密約と呼ばれるその巻き返し工作の相棒をつとめた8歳年上のイングランド国王チャールス2世は、歴史家トレヴェリアンの言葉を借りると、「血筋も育ちも半分フランス人」であった。そして「快楽」を人生の目標とする人物でもあった。この二人が組んで、まずはデ・ウィットが率いる小しゃくな共和制オランダを倒し、いずれの時にかイングランドの強制的再改宗(イングランドのカソリック化)を謀るという企みが「ドーヴァーの密約」と呼ばれる秘密条約の骨子である。友清理士氏が翻訳した同密約の条文には「英仏両王は、ネーデルラント共和国の連邦議会の傲慢を罰し、この国民を打ち据える決意をした事を世界に対して正当化するのに十分以上のあまたの理由をそれぞれ抱えている。・・・」と記されている。企みに乗ってくれたお礼のような形で金に困っているチャールスにルイは資金に熨斗(絶世の美少女ケルアイユ−後のポーツマス女公爵)をつけて提供した。あくまで秘密条約(実際なかなかバレなかった)であり、両者の間の連絡役はチャールズ2世の妹でルイ14世の弟オルレアン公の妻となっているアンリエット・アンヌであった。スパイがうようよしていたこの時代のヨーロッパではあったが、兄と義兄との間を往反する彼女に疑いの目を向けるものはいなかった。「密約」締結にうってつけの人物が選ばれたわけであるが、デ・ウィットやイングランド議会に悟られてはならず、その為には最も危険な人物としてテンプルを蚊帳の外におく措置がとられた。1670年9月、表向きは私用ということでハーグ駐在イングランド大使テンプルはロンドンへ召換された。私用の為の一時帰国であるから、当然テンプルの妻子はハーグに残っていた。国王チャールズは擬装工作の一環としてオランダ連邦政府にテンプルが急な私用で帰国したことを書簡で伝えていた。ところがロンドンの宮廷に現れたテンプルは国王や重臣達の微妙な態度から、自分が外交官として「外された」ことを瞬時に判断し、何の躊躇もなく、サリー州シーンの自邸における田園生活に入った。テムズ川の土手をも利用した庭で42歳のテンプルはぶどうやメロン、柑橘類を栽培し、他人が見ても見事な果実を収穫するかたわら、哲学と文学にエネルギーを注ぐという理想的田園生活を送り始めた。翌1671年夏、表面を取り繕う必要もなくなって、公式に大使テンプルの辞職とその妻子の帰国が発表された。ところがテンプルの妻ドロシーらを迎えに行った軍艦の艦長は、途中で遭遇するオランダ軍艦を挑発する命令を受けていた。挑発の結果、銃砲が火を吹き、英蘭両国民に人気の高い大使テンプルの妻子が負傷あるいは死亡するようなことになれば、オランダに喧嘩を吹っかける絶好の口実ができるという、実にくだらない事を考えるのが、国王チャールズ2世という人物の一面でもあった。そして事態は翌1672年3月の第3次英蘭戦争の開始へと推移していく。
ハンプトン・コート宮殿の庭園 (2004/12撮影)
ヘンリー8世が元々は自分の御下賜金係から異例の出世を遂げ大法官としてイングランドの歴史に類のない権勢を振るったウールジーの豪勢な屋敷であったものを没収し、拡充して愛用したのがハンプトン・コート宮殿である。
 1672年3月、英仏海峡において東地中海から帰還する途中のオランダ商船団がイングランド海軍に襲撃された。第2次英蘭戦争と全く同じく、まず不意討ちを喰らわせ、ダメージを与えておいて、イングランドは3月27日オランダに宣戦布告した。ルイ14世も4月6日に宣戦布告し、英仏両国によるオランダ侵略戦争(第3次英蘭戦争)が始まった。4月28日、12万の大軍を擁する34歳のルイ14世は、外務大臣ポンポン、陸軍大臣ルーヴォア、王弟オルレアン公や主だった貴族、外国大使まで引き連れて「栄光」を求める戦争にサンジェルマンを出発した。ドーヴァーの密約をチャールズ2世との間に締結してから1年以上かかって準備を整えたルイは「これでのんびりオランダ旅行に出かける供まわりが整った」と言い放ったそうである。親政を始めて間もなくオランダとの同盟条約を結んだ1662年、ルイはフランス軍の大砲に「太陽」の記章(バッチ)と自らの座右銘「並び立つ者なし」の文字を彫り込ませていた(シリーズ8参照)。今やその麾下にはテュレンヌ、コンデ、リュクサンブール、ヴォーバンら綺羅星の如く、世界史に名を残す名将が揃い、あっという間にフランダースを駆け抜けてオランダに侵入して来た。これに対するオランダの陸上兵力はわずか4万たらずであった。「海上商業権の不可侵」をいつまでたっても声高に唱え、欲に目が眩んでいる商人貴族達の政治的利益代表の立場にもあるデ・ウィットは、海軍の充実を怠らず、それによってイギリスとの海上戦では互角以上の戦果を上げることができた。後述するように、ウィリアム3世の大功を別としても結局オランダ海軍がこの国難を救ったとも言える働きをした。デ・ウィットは他方、自らの政治的大目標である「完全なる共和制」即ち「真の自由」を貫徹するために、策を弄してオレンジ家のウィリアムが総督位に就くことを徹底して阻んできた。だが、その代償は余りにも高いものとなった。デ・ウィットの治政18年の結果として、オランダの陸上兵力に対する配慮は全くなおざりにされ、ウィリアムの父や祖父、その兄モーリス(マウリッツ)の苦心や危機感は雲散霧消してしまった。フランス軍の攻撃を受けた各地の守備隊はあっという間に降伏するか蹴散らされてしまったのである。経済オタク、軍事、外交オンチとでも形容すべきオランダ連邦議会(その核をなすのはホラント州議会、アムステルダム市議会)は、強大になり過ぎたフランスの動きを見てさすがにまずいと思ったのか、この前年(1671年)20歳のウィリアム3世に「大将軍」「大提督」という地位をおこがましい限定条件をつけて与えてはいたが、ウィリアムがその上の「総督」の地位に就くことは1667年の「恒久令」によって永久に禁止されていた。

1         10 11 12