 |
 |
 |
丸屋 武士(著) |
 |
 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 |
前述したように第3次英蘭戦争においてもオランダ海軍は勇戦し、イングランド国王チャールズ2世の思惑は外れた。議会を閉会中に開戦したチャールズは、裏でルイから貰う金では到底追い付かない金欠病に罹(かか)り、やむを得ず新たな財源を得るべく議会を召集した。日本人に馴染みのないイングランド議会と国王や重臣達との遣り取りや法律の中味についての説明は省略する。要するに、この時開かれた議会によって、21歳のウィリアム3世がオランダ連邦議会で周章狼狽の古参議員たちに自らの見通しとして述べた通り、チャールズは結局オランダとの停戦に追い込まれた。この頃イングランド議会下院きっての雄弁家として鳴らしたウィリアム・コベントリー(コベントリー男爵家の五男。四男ヘンリーは宰相を務める)は、フランスとの同盟の不自然さを説き、「永続的な国の繁栄は他国を侵略することによっては得られず、勤勉と節約、そして他国より安い商品を提供することによってのみ得られる」と主張したという。雄弁だけでなく、「有徳の士」として知られていたウィリアム・コベントリーならではの発言であった。オランダとの停戦、講和ということになれば、当然サリー州シーンのテムズ河畔で田園生活を送っているテンプルにお呼びがかかった。1674年2月、ウェストミンスター条約が調印されて第三次英蘭戦争は終結した。 |
 |
 |
ハンプトン・コート宮殿 駅前からテムズ河越しに望む全景 (2004/12撮影) ハンプトン・コートからテムズ河に沿って下流に向かい歩いても行ける距離にウィリアム・テンプルのシーンの私邸があったようである。 |
 |
|
 |
1674年7月、2度目のハーグ駐在イングランド大使として4年ぶりにオランダに赴任したテンプルの任務は、講和したオランダとの友好関係を促進することと、オランダやスペイン等と戦争を継続しているフランスの帝国主義的冒険を阻止し、ヨーロッパに平和をもたらすという2点であった。そして、そのいずれも「優柔不断」の代表的人物チャールズ2世の愚行と二枚舌(裏取引)によって、到底成功を収めたとは言えない結果に終ってしまった。しかしながら、その過程において、祖国イングランドに結果として最大の貢献をなす役割がテンプルに巡って来たのは天の配剤と言うべきであろうか。前述したように「ドーヴァーの密約」の過程で外されるまでの2年間、テンプルとデ・ウィット、テンプルとウィリアム3世の信頼と友情は深厚なものであった。不幸にして非業の死を遂げたデ・ウィットをテンプルは高く評価していた。質実剛健、堅忍不抜というオランダ的美徳に加えて繊細さと機略という資質をも兼備したデ・ウィットに対して、テンプルは絶頂期の共和制ローマの政治家に優るとも劣らずと評価を下した。鋭敏で個人的魅力が高い点でデ・ウィットは、時代や民族を超越した最上級の共和制寡頭政治家として評価さるべき人物である。カエサル(英語名ジュリアス・シーザー)やクレオパトラを妻としたアントニウスがそうであったように、デ・ウィットもまた苛酷な運命から逃れることができなかった英傑の一人である。ロッテルダム出身の私生児エラスムスが16世紀ヨーロッパを代表する知識人であったように、ライデン大学総長ヨハン・ホイジンガーは20世紀を代表する碩学の一人である。そのホイジンガーに指摘されるまでもなく、デ・ウィットはトロンプやデ・ロイテルと同じくオランダ人が子々孫々に語り継ぐべき国民的英雄の一人であることは間違いない。 |

 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 |