丸屋 武士(著)
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ハンプトン・コート宮殿の庭園 (2004/12撮影)
6人の妻を娶りそのうち4人を斬首刑に処したヘンリー8世は2人目の妻である元女官アン・ブーリン(エリザベス1世の母)の刑の執行をここハンプトン・コート宮殿にいて(狼煙によって?)知らされたという。
 宰相の座に就くことは辞退したが、国王はフランスと対峙している同盟軍の盟主ウィリアム3世に対して、イングランドの講和斡旋提案を受け入れるよう説得する任務をテンプルに与えようとした。そのお役目も固辞したテンプルは、大使として一時帰国のまま1677年の夏から秋にかけてシーンの私邸で田園生活を満喫していた。そうこうしている間に、渡英を希望していたウィリアムに対してチャールズが許可を出したことによって9月末ウィリアムがロンドンへ到着した。テンプルはまず今や政界の中心人物となっているダンビー伯に紹介し、国王も王弟も機嫌よくウィリアムを迎えたが、ウィリアムは政治(ナイメーヘン講和の条件)についても、結婚についても一言も発しなかった。そのように頑なに構えていたウィリアムであったが、メアリーと会見するや、テンプル夫人ドロシーの情報から得ていた好印象を我が目で確認したせいか、ただちにメアリーの父ジェームズとメアリーの伯父チャールズ2世に対して結婚の申し込みをした。これに対して国王と王弟は、縁談よりはナイメーヘンの講和条件に同意してもらう方が先だと突っぱねた。この縁談を主たる目的として渡英して来たはずのウィリアムはここで負けずに踏ん張り、チャールズの話に乗ることを断固拒否した。いくらメアリーが欲しくても名誉(国)は売らないというスタンスである。双方譲らないうちに3、4日が過ぎ、苛立ったウィリアムはテンプルに対して、イングランドに来たことを後悔し待ってもあと2日だけだと言いながら、いずれにしてもウィリアムとチャールズが今後最大の敵となるか最大の友人となるかはチャールズ次第だと、恫喝を加えた。この最後通牒をウィリアムの要請によってテンプルがチャールズ2世に伝えると、豹変したチャールズは雅量を示し、かねてより決めてあった事だと縁談を快諾して、弟ジェームズにその旨伝えるようテンプルに命令した。テンプルは花嫁の父ヨーク公ジェームズに王の意向を伝え、ジェームズも承諾した。ウィリアムは待ちに待った結婚許可の報を持って現われたテンプルに抱きついて、自分は世界一幸せな男だと言ったという。幼い頃から喜怒哀楽を顔に出さず、侵入してきたフランス軍に対して義務を怠り戦場を放棄したオランダ人達を容赦なく軍法会議にかけて処罰した謹厳冷徹、鉄の意志を持つあのウィリアムが我を忘れた一瞬であった。肺が弱く、背中が曲がり、身長も169センチとメアリーよりも低い程で、当時の宮廷で流行したかつらもつけず、質素そのもののウィリアムの姿は奇異に感じられたかも知れない。対するメアリーは16歳の少女であったが、ヨーロッパ一の美人(王族として?)との評判で、10月21日、父ヨーク公ジェームズからウィリアムとの結婚を言い渡されて、1日半泣き通したという。1677年11月4日、ウィリアムの満27歳の誕生日の晩、セントジェームズ宮殿のメアリーの部屋で、メアリーとオランダ連邦共和国総督ウィリアム3世の結婚式が執り行われた。執り仕切ったのはロンドン主教コンプトン、参列者は国王チャールズ2世、花嫁の父である王弟ヨーク公ジェームズ、そして臨月のヨーク公妃であった。メアリーの妹アン(後のアン女王)は病気(数日後に天然痘と判明)で出席できなかった。式が終り、床入りとなってぎこちない二人に国王は「はげめよ、甥っ子。−−−−」と声をかけたという。英蘭両国の誰もが祝福する結婚であった。但し、テンプル夫妻と共にこの縁談を推進したダンビー伯(ドロシーの従兄弟であり、若い頃パリにおけるテンプルのテニス仲間)との政争に敗れたアーリントン伯とロンドン駐在フランス大使の二人だけは苦々しい思いであった。
ロンドン市 セント・ジェームズ宮殿側面 (2004/12撮影)

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