丸屋 武士(著)
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ブリクサム港 展示されているオランダ船 (2004/12撮影)
 この間、共和派(議会派)に対する衆民の敵意は日に日に高まり、ついに8月4日、傷の癒えぬ体をひきずってホラント州議会に現れたデ・ウィットは、この20年間の政策が誤りでなかったことを強調しながらも結局辞意を表明した。8月20日、デ・ウィットは、言いがかりのような罪の科(とが)を受けて終身の国外追放処分となった兄コルネリウスが入れられているビネンホフ宮殿前の監獄に兄を見舞った。ライデン大学で共に数学と法律を学び、オランダ海軍軍監としてイギリス人に「チャタムの屈辱」という鉄槌を下すという大働きをした兄を慰めるためにデ・ウィットは監獄を訪れたのである。そこでデ・ウィット兄弟は激昂し狂乱状態となった市民達に監獄の外に引きずり出されてなぶり殺しにされてしまった。デ・ウィットの死体は八つ裂きにされた上、心臓はえぐり出され、体の様々な部分が高値で売り飛ばされるという激しいことになった。残骸は吊るしておかれたが夜になって勇敢な従僕が埋葬のために運び去ったという。このような野蛮な行為に及んだ市民達(親オレンジ派?)に対し、デ・ウィットと親交のあった哲学者スピノザは激しい怒りを燃やして悲嘆にくれたという。オランダ政変の報にチャールズ2世は再びウィリアム3世をとり込んだ和平提案をしてきたが、ウィリアムは全く相手にしなかった。イングランドの外交使節アーリントン伯爵ヘンリー・ベネットからデ・ウィットと同じ運命をたどることになると仄めかされたウィリアムは、不快感をあらわにして「民衆にハつ裂きにさせるという脅迫にこの私がおびえるとは思わないで頂きたい。性格上、意気地なしではない」と答えたという。
アッペルドールン ヘットロー宮殿 (2004/12撮影)
 ルイ14世の露骨な侵略政策はたちまちヨーロッパ各国の嫌悪と警戒を招くところとなった。オランダ連邦議会における演説においてウィリアムが見通しとして述べた通り、7月のうちに神聖ローマ帝国皇帝レオポルド1世は、ブランデンブルク選帝侯と共にそれぞれ1万2千の兵をオランダに提供することで合意し、9月には両国の兵は合流した。同時に、ウィリアムの気概と勇気に奮い立ったオランダ民衆はフランス軍と一戦交える気概にあふれた兵士となってウィリアムの軍は3万に増大した。
 大地が凍り、水に妨げられて満を持していたというべきか、やむを得ず待機していたリュクサンブール将軍麾下のフランス軍は占領地ユトレヒトからハーグ、ライデンに向けて氷上の進軍を開始した。ところが蒙古襲来時に九州地方に台風(神風)が発生したように、オランダにも神風的僥倖がもたらされた。突然気候がゆるみ氷が溶け始めたのである。待っても寒気が戻らぬ中、凍てつく水の中を撤退するリュクサンブールは冷たい沼地で落馬し、病を得てユトレヒトに運ばれる始末となった。かくしてオランダは沈没寸前の船が陸地にたどりつくような形で征服を免れ、「災厄の年」1672年を乗り越えたのである。

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