| しかしながら、辛うじてフランスによる征服を免れたオランダの苦境は終わったわけではない。翌1673年6月30日には、歩兵5000、騎兵1000の守備隊が守りオランダが誇るマーストリヒト大要塞が陥落してしまった。26門の大砲を用いたフランス軍にチャールズ2世の庶子モンマス公やシリーズ8の主人公ジョン・チャーチルも助っ人として参加したこの戦闘は激烈を極め、『三銃士』の一人、近衛銃士隊第1中隊長ダルタニアンはここで頭に銃弾を受けて落命した。現在公園になっているその場所にはダルタニアンの銅像が立っているという。この時点において昼夜働きづめのウィリアムも疲れたのか、フランスとの和平交渉の再開に同意した。ところがケルンで始まった和平交渉におけるフランス側の態度は増々居丈高で、その要求にはウィリアムも到底妥協することはできなかった。とは言っても、もしこの時イングランドがオランダ艦隊を破ってイングランド兵がゼーラントに上陸すれば、もはやウィリアムに抵抗の術がないことは明白であった。ところが、またしてもオランダに神風が吹いた。6月7日、24日の2度に亘るスホーネヴェルトの海戦でデ・ロイテルがイングランド艦隊を撃退したのである。ウィリアムの大功は別として、トロンプとデ・ロイテルという世界海軍史に残る2人の名提督と勇敢なオランダ水兵がオランダを一度ならず国難から救った。疲れていたウィリアムもこれに勇気づけられたのか、9月11日、電光石火の行動により、敵将リュクサンブールの目と鼻の先で3000のフランス兵が守る城塞都市ナールデンを奪取した。損害わずか100というウィリアム3世の見事な初勝利であった。息をつく間もなく9月30日、ウィリアムは本土の守りをワルデック将軍に託してハーグを出発、アントワープ付近でスペイン領ネーデルラント総督と会見し、スペインは10月16日フランスに対して宣戦布告をした。11月4日、北上したウィリアムは同じくフランスに対して宣戦布告した神聖ローマ帝国軍とドイツはボンの近くで合流し、モンテコックリ将軍と握手をした。11月12日、ウィリアムはボンの攻略に成功し、これを見たライン河畔の小君主たちはこぞって同盟側(ウィリアム側)になびいてきた。オランダ征服間近かと思われたフランスは、結局ヨーロッパ中を敵に回すことになってオランダから撤退を余儀なくされるという状況に陥った。1673年12月下旬、ウィリアムは政務の為1週間ほどハーグに戻った。夜の間にひっそりハーグ入りしたが、「祖国の救済者」オレンジ公ウィリアムの帰還を聞きつけた民衆が館(ビネンホフ?)の周囲に集まり、ウィリアムは何度も窓辺に出てその歓呼に応えねばならなかったという。20万を越える常備軍を擁してヨーロッパに突出する軍事大国フランス、そのルイ14世の12万を超えるオランダ侵略軍の前に立ちはだかった若冠22歳のウィリアム3世は、一躍ヨーロッパの最重要人物の一人となった。そして「並び立つ者なし」を座右銘とし、あくなき膨張志向を持続する大王ルイとの戦いは、ウィリアムが51歳で他界するまで、この後30年に亘って続くことになった。その全貌を語ることはこの小論の為し得るところでなく、話を本編のもう一人の主人公ウィリアム・テンプルに戻したい。 |