 |
 |
 |
丸屋 武士(著) |
 |
 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 |
テンプルは前シリーズで述べたように三国同盟締結後、大使として着任早々デ・ウィットの次に当時17歳のオレンジ公ウィリアムと会見した。この会見によってテンプルはウィリアムが予期した以上の立派な人物であることを見出した。まず、飾り気がないことが何よりも素晴らしく、人間味に溢れ、共感を得やすい気性の持ち主であり、これといった欠点のない人物であることが、すぐわかった。その後交際を重ねていくうちに、テンプルはウィリアム3世がオランダ的美徳と曽祖父ウィリアム1世以来の真に偉大な血筋とを合体させた数多(あまた)の美徳を有する類まれな君主であることを見て取った。「ドーヴァーの密約」の過程で外され帰国するまでの2年に及ぶ交際において、テンプルはウィリアム3世の人となりについて次のように観察した。寡黙で思慮深いウィリアムは常に人の話を聞く耳を持ち、健全で安定した判断力の持主であった。その上、職務に精励恪勤しながら我が身に楽を企むことがなかった。敢えて言えば狩猟に目がないことぐらいであった。他人に対して慈悲心を持つ敬虔なプロテスタントであり、一担決めた事(やると決めた事、やめると決めた事)は貫き通す決断力の持ち主であった。年令に似合わぬ自制心の持ち主であり、日頃の生活は倹約しつまかに務める一方、事ある時は金を惜しまず壮麗に格式を保った。戦場における栄光を切望し、国家に隷従するのではなく、国家に貢献することによって偉大な人物になろうという高い意志を持った強靭な精神力の持ち主であった。テンプルによるこの観察は、その後のウィリアムの活躍をあたかも予言するかのような正鵠を射る見事な観察であったと言えよう。 |
 |
 |
ハンプトン・コート宮殿の庭園 (2004/12撮影) ロンドンから移動する廷臣たちの不便を慮ってハイドパークの西端にあるケンジントン・ハウスをノッチンガム伯から1万8000ギニーで購入し、これを改築してケンジントン宮殿として常用し、ウィリアムはハンプトン・コートへは週末に行くようになった。 |
 |
|
4年近くの空白の後、再びのハーグ駐在大使となったテンプルとウィリアムの関係は親密さを増し、英語を話すことと、英国式の簡素な食事作法が気に入っているウィリアムは、週に1度は食事をし、週に2回はお茶を飲むためにテンプルの家(大使公邸というべきか)に立寄るという、異例の相互信頼(アンタント)が築かれていった。そのような状況の中で1676年4月初旬、テンプルはウィリアムとの会見の中で、イングランド国王チャールズ2世の姪、王弟ヨーク公ジェームズの長女メアリーとの縁談について相談を受けた。予てからあった話であるが、イングランド情勢を知悉しているウィリアムから見ると、イングランドに再度の革命騒ぎが起こる虞れなきにしもあらず、またイングランド臣民に近頃は不人気のスチュアート王家の娘と結婚することは英蘭両国民の不興を買う恐れもあった。だが少年のような素朴さをもってウィリアムは一生の伴侶としてのメアリーの人となりに最大の関心を寄せ、それはこの時代のヨーロッパ宮廷社会の一般的風潮とはかなり隔った基本態度であった。ウィリアムはテンプルに対してイングランド大使としてではなく「友人」として相談に乗ってくれるよう依頼した。テンプルにとって、あるいは如何なる外交官にとっても、これに優る「信頼関係の証し」はないと言えよう。20年間に3度も侵略戦争を仕掛けてきた敵国イングランドの大使テンプルを頼ったウィリアムは、人を見る目があった。イングランド国王の使者として何回かウィリアムに面会したアーリントン伯ヘンリー・ベネットは、その思い上った言動によってウィリアムに蛇蝎の如く嫌われていた。策謀、陰謀が渦巻き、きのうの友は今日の敵となるのが日常茶飯の現実世界で、花嫁候補の容姿や人柄、気性についてまで全幅の信頼を置いて相談できる「友人」がいたということは、ウィリアム3世にとってこの上ない幸せなことであった。一方テンプルにとっては、圧倒的なフランスの軍事力と専横を撥ね返し、引き続き同盟側の盟主として戦争を継続してヨーロッパの最重要人物の一人となっているウィリアムから「友人」としてそのような相談を受けたことは、英蘭両国の命運を左右する「一大事」への挑戦機会が訪れたことをも意味する出来事であった。そして、それは結果として、プロテスタント三国同盟とは比較にならない程大きな、世界史を画する思恵を英蘭両国にもたらした「名誉革命」として11年後に結実した。 |

 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 |