丸屋 武士(著)
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  17世紀の百年間にヨーロッパで1年中戦争がなかったのは、たった7年であったという。1601年から1700年までの間の93年間はヨーロッパのどこかで戦争があったということになる。密偵(スパイ)を配置し、賄賂をバラまき、常に内応(裏切り)を誘って合従連衝、昨日の友は今日の敵という状況が常態であったと考えて差しつかえあるまい。それが国際政治の実態であったし、21世紀の今日も変わることのない現実である。クロムウェル支配下のイギリスは航海条令によってオランダの海上(貿易)覇権に挑戦したが、フランスは漁夫の利をねらい、自らもフロンドの乱を抱えその英蘭戦争を横目で見ていた。一方、清教徒革命によって斬首されたチャールズ1世の息子のチャールズ2世やその弟ヨーク公(後のジェームズ2世)はフランスに亡命し、いとこのルイ14世を擁するブルボン朝の庇護を受けた。この二人は亡命先のパリで金欠病に苦しみ、その後王政復古(1660年)によって帰国し王位についた後もチャールズ2世はルイ14世からたっぷり金銭的援助を受けた。もちろん、ルイの側にはそれなりの下心あってのことである。並び立つ者なき絶対君主として、臣民が政治に口出しするようなイギリスの政治体制はルイにとっては我慢のならないものであったし、カルヴァン派プロテスタントに信仰と礼拝の自由を認めた「ナント勅令」を廃止と決めた大王ルイは、チャールズ2世やその弟のジェームズ2世が国王として上からイギリスをカソリックの陣営に引き入れること(グレート・ブリテンの強制的再改宗)を期待していたのである。結果として何十万人ものユグノーが国外逃亡した「ナント勅令の廃止」はルイ最大の失政とも言われている。
Nantes(ナント)

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