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丸屋 武士(著) |
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初代モールバラ公爵ジョン・チャーチルについて話を進める前に、再びフランス宮廷に話を戻したい。ルイ14世が22歳で親政に乗り出し、実質的に国を支配し始めて2年後の1663年1月サヴォイ公爵家の分家フランスのソワソン伯ウジェヌ モーリス・ド・サヴォアに末っ子として五男オイゲン(英語読みではユージン)が誕生した。母は大宰相マザランの姪である。10歳になったオイゲンは父が戦死した為、祖母の手によってルイ14世の宮廷で育てられることになった。母はルイの勘気に触れ、国外追放となっていたからである。1683年、20歳になったオイゲンは軍人になることをルイ14世に申し出たが、体が小さく足も一部不自由なこの青年に軍人としての資質なしと見たのか、すげなく拒絶され僧職に入ることを勧められた。憤激したオイゲンはパリを抜け出してオーストリアに向かい、神聖ローマ皇帝レオポルド1世に許されて一将校として折りしもウィーンを包囲したオスマン・トルコ軍と戦った。以後ハプスブルク家と運命を共にしたオイゲンは啓蒙主義的な自由思想の持主として祖国フランス(あるいはブルボン家というべきか)に対して終生激しい敵愾心を燃やし続けた。開花した軍事的才能によって1685年には大佐から少将に、1693年(29歳)にはオーストリア帝国最高位の陸軍元帥に任命された。1697年、ハンガリーにトルコ軍を追ったオイゲンはツェンタ(現セルビア領)において圧倒的に優勢であったトルコ軍を撃破し、これに狂喜したオーストリア皇帝レオポルド1世によって勲章ばかりでなく、恩賞として土地をも与えられた。ツェンタの戦いで得た莫大な戦利品の分け前と合わせて、サヴォイのオイゲン公(Engene Von SavoyenあるいはPrince Engene of Savoy)は、ついにヨーロッパ有数の大資産家となった。 |
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ベルヴェデール宮殿 (オーストリアポケットガイドより) |
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観光名所として現在も有名なオーストリアの首都ウィーン郊外のベルヴェデール宮殿はオイゲン公の夏の離宮としてその財力によって建立され、1723年完成した。建物は上宮と下宮にわかれ、広大な庭園にはスフィンクスも置かれている。現在は上宮が19、20世紀美術館、下宮はバロック美術館となっており、上宮「黄金の間」にはオイゲン公の像が置かれている。ウィーンの町がリングと呼ばれる直径1キロの外に発展し得なかったのもそのせいであったが、オスマン・トルコは2世紀にわたってオーストリアのみならず東欧(あるいは西欧)にとっての一大脅威であった。オイゲン公の活躍によって東欧に対するトルコの支配、圧迫にも終止符が打たれたのである。ハンガリー貴族の中には「切り落としたトルコ人の生首」を紋章とする者があり、ハンガリーの首都ブダペストの王宮の丘にはヨーロッパをトルコ軍の恐怖から解放した英雄として今も堂々たるオイゲン公の騎馬像が立っている。小柄で風采の上がらない人物であったが多くの人々に好かれ、学生歌にも歌われている。収集した絵画その他の夥しい数の芸術品と共に1万9000冊余りのオイゲン公の蔵書は今もウィーンに保管され、その興味の多様なことに驚かされる。 |

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