丸屋 武士(著)
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  日本では赤穂浪士による吉良邸打入りという事件があった1702年(元禄15年)、即位したアン女王は当時同性愛ではないかとうわさされた程仲の良かったセアラ・ジェニングスを直ちに女官長に任命し、即位数日後にはセアラの夫モールバラ伯ジョン・チャーチルをガーター勲爵士に列した。アンは先代ウィリアム3世の遺産であるオランダとの対仏同盟軍(ハーグ同盟軍)の司令官に最愛の夫ジョージを任命したかったが、何を聞かされても、え、ほんと?(Est-ilpossible?)と答えるばかりで、「え、ほんと」さんと綽名されている人物をオランダ側は受け入れなかった。結局この年総司令官としてオランダに出陣したチャーチルはフランス軍に対して大した勝利は得なかったが、一応の戦功をたてて帰国した。これに対しアン女王はチャーチルを伯爵から公爵に昇爵させ、女王在世中5千ポンドの年金を与えるという恩賞を決定した。女王は年金を終身支給としたかったが議会の反対によって女王在世中と限定されたのである。
ブレナム宮殿庭園
(1985/11 撮影)
 1704年4月、チャーチルはオランダに渡り、オランダ、オーストリア両国と周到な打ち合わせをした後、イギリス・オランダ連合軍を率いてヨーロッパの内陸深く400キロも行軍してついにはドイツ南東部(バヴァリア)に到達した。そこへ前述したオイゲン公がオーストリア帝国軍司令官として1万数千の軍を率いて合流して来た。この400キロに及ぶ行軍の用意周到さの中にチャーチルの軍事的天才が確証されると言われている。ドナウ河北岸の小村ブリントハイム(英語名ブレナム)で5万余のフランス・バヴァリア連合軍と対峙したチャーチルは8月13日朝、右翼にオイゲン公指揮のドイツ・オーストリア騎兵、左翼にはその勇猛な戦いぶりからサラマンダー(火とかげ──最近ゲームのキャラクターとして子供にも人気がある)と綽名されたイギリスの猛将カッツが指揮するイギリス、オランダの歩兵を配置した。自らは中央に位置し歩兵、騎兵を混じえた独特の隊型を組んだチャーチルは、オイゲン公、カッツ両将の予定通りの猛攻を足がかりに、ゆさぶり、中央突破のみごとな作戦を展開して敵軍5万を壊滅させ、敵将タラール元帥を捕虜にしてイギリスに連行した。この時41歳のオイゲン公は前述したツェンタの戦い(1697年)の圧勝による恩賞によって既にヨーロッパ有数の資産家となっていたが、13歳年上のチャーチルとウマが合い、以後大陸におけるいくつかの戦いで両者は密接に協力した。
 ブレナムの敗報が届いた時、ルイ14世は曽孫の誕生祝いの最中で、この凶報をルイに伝える勇気のある者は彼の臣下にはいなかったという。それほど軍事大国としてのフランス国王、フランス陸軍ともに驕り高ぶっていたのである。驕れる者久しからずということであろうか、並び立つ者なき「太陽王」ルイ14世の高慢の鼻をへし折り、プロテスタンティズムを確立したチャーチルの働きは誠に大きなものであった。オーストリア帝国にとって前門の虎とでもいうべきオスマン・トルコはオイゲン公に駆逐され、後門の狼とでもいうべき軍事大国フランスはチャーチルによって鉄槌を下された。戦場となったドナウ河畔の小村ブレナムはオーストリアの首都ウィーンまでは200キロたらず、ヨーロッパ大陸の最深部に位置し、戦場を逃れようとしてドナウ河で溺死したフランス兵は数千ともいわれている。

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