丸屋 武士(著)
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 1701年フランス陸軍の総兵員数は22万、これに対し1705年のオーストリア陸軍は10万、1710年頃のイギリス陸軍は最大規模で7万5千であり、まさに桁違いの陸軍がフランスに誕生したのである。そして、これを可能にした最大の要因はヨーロッパ最大のフランスの人口であった。天然資源、肥沃な土地に恵まれていたフランスであったが、ルイが親政に乗り出した頃(1661年)のフランスの人口は1800万人、ハプスブルク家支配のオーストリア800万人、スペイン600万人、イギリス700万人という状況であった。フランスにとって最大の資源である人的資源を活用し、その類まれなリーダーシップによって旧式の軍隊を斬新な近代的軍隊へと進化させて、フランスをヨーロッパ最大の軍事大国に仕立て上げたのがルイ14世である。意外に感じるかもしれないが、当時の日本の人口はフランスよりも大きく、八代将軍吉宗の命で初めて行われた全国人口調査(1721年)によれば2600万人から3100万人の間であるとされている。関ヶ原の戦いのあった1600年の人口はおよそ1500万人と推計されている。ところが日本が近代的兵制をほかならぬフランスにならって創設しようとしたのはルイ14世による革新から200年も後のことであった。皮肉なことに1870年(明治3年)の普仏戦争によるプロシャの勝利(フランスの敗北)を目にしていた日本は目先を変えてプロシャ(ドイツ)陸軍をマネすることになった。

ヴェルサイユ宮殿
 ところで、ルイ14世治世中に鋳造されたフランス陸軍の真鍮砲(大砲)は、砲身にすぐれたデザインが施され、栄光のルイ14世の「大御代(グラン シェクル)」を象徴する装飾美術の好例として高く評価されている。砲身の中頃にある2本の取っ手は優美なイルカの形をしているが、その下方、砲尻に向かっては太陽の模様が彫り込まれている。太陽は「太陽王」と称されていたルイが好んで採用した記章(バッヂ)であって紋章(coat of arms)ではない。
更にその下方、砲尻近くにはフランス国王としてのおなじみの紋章(ユリ小紋)が王冠をかぶって彫刻されている。ルイの採用した記章(バッヂ)の太陽の図柄の上辺には、何とルイの座右銘「並び立つ者なし」<Nec Pluribus Impar>の文字が併記され彫り込まれている。
 この並び立つ者なき絶対君主が、斬新な近代的大軍を擁して次々と戦争を仕掛け領土拡張を計る状況はオランダその他の国々にとっては悪夢であった。とりわけ、元々はドイツ語圏であったアルザスをフランスが1681年に併合し、1685年にはナント勅令を廃止するに及んで、陸続きのオランダ(画家レンブラントはオランダの絶頂期を生き1669年に死去)ばかりでなく海を隔てて30キロ先のイギリスにとってもルイ14世のフランスは打倒すべき目前の敵となった。

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