 |
 |
 |
丸屋 武士(著) |
 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 |
オランダ人ウィリアムはイギリス人が好きでイギリスに来たわけではなく、イギリス人も最後までウィリアムを好きになれなかったと言われている。ウィリアムが21歳の頃(1672年)チャールズ2世を懐柔してイギリスを味方につけたルイ14世がオランダを侵略し、イギリスもオランダに宣戦布告した第三次英蘭戦争において、オランダ人は防潮堤の一部を切って国土の一部を水没させ、祖国を死守した事もあった。名誉革命によって議会制立憲王制を採用し、プロテスタントの盟主とでも呼ぶべきオレンジ公ウィリアムを国王として迎えたイギリスと、絶対王制の権化、カソリックの守護神ルイ14世との対決はもはや避けられないものであった。 |
共に王位にあったウィリアムとメアリーの間には子供(王位継承者)がなく、メアリーは先に死去していたため、1702年ウィリアムの死(乗馬がモグラ穴に足を取られ落馬したことが原因)によってメアリーの妹(ジェームズ2世の次女)アンがイギリス国王となった。アンは既にデンマークの王子ジョージと結婚し、どちらかと言えば鈍重な性質のジョージをこよなく愛していた。ところが17回懐妊したアンは流産、死産の連続で成人した子は一人もいないという誠に気の毒な女性であった。アン女王にとっては、いわゆるジャコバイト(イギリスをカソリック化しようとしたアンの父ジェームズ2世の流れをくむ者)の動きは看過できない国政上の大きな不安定要因であり、ジャコバイトを庇護し、支援するドーヴァー海峡の向こうの大王(ルイ14世)の力を殺ぐことが喫緊の課題であった。そのルイ14世に鉄槌を下し、イギリス史上最高とも言われる恩賞を獲得したのが、初代モールバラ公爵ジョン・チャーチルである。 |

 |
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 |