丸屋 武士(著)
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(1985/11 撮影)
 1666年、16歳のチャーチルは王弟ヨーク公の近習(小姓)に、取り立てられた。その前年ヨーク公妃づき侍女(女官)となったチャーチルの姉のアラベラはさほどの美人ではなかったが、今様に言えばグラマーで、ヨーク公の目にとまってその愛人の一人となった。ヨーク公にとっては愛人の弟であり、しかも自らの近習(小姓)でもあったジョン・チャーチルは人をそらさぬ優美な物腰のうえ、天性の美貌に恵まれていた。軍人志望のチャーチルは17歳で近衛歩兵連隊の少尉に任官、短い外地(アフリカのタンジェ)勤務を経て21歳で帰国した。艶聞飛び交う当時のお盛んな(乱れた?)宮廷の雰囲気の中でチャーチルは美人として浮き名を流すカースルメーン伯爵夫人バーバラ・ヴィリアーズと情を通じるという発展ぶりであった。彼女を愛人の一人とする国王チャールズ2世と鉢合わせして2階の窓から飛び降りて逃れたこともあったという。周知のようにチャールズ2世は王妃ブラガンザのカサリン(ポルトガル王の娘)との間に嫡子が無く、13人の愛人に8人の男子を生ませ、そのうち6人を公爵に取り立てた。一方王弟ヨーク公とチャーチルの姉アラベラの間には二男二女が生まれ、そのうち一人はヨーク公がジェームズ2世として王位につくに及んで公爵(ベリック公爵)に取り立てられた。ベリック公爵は長じて父ジェームズがフランスに亡命した後、フランス陸軍元帥となり、子孫にはアルバ公爵を残した。
ブレナム宮殿案内板(モールバラ公爵家の紋章)
(1985/11 撮影)
 前述したように大王ルイ14世はチャールズ2世を懐柔して1672年オランダに侵攻し、同時にイギリスもオランダに宣戦布告した(第三次英蘭戦争)。チャーチル(当時22歳)はフランスの傭兵部隊に大佐として出向を命ぜられ、チュランヌ将軍の指揮下に入ったが、将来の大物として同将軍に目をかけられたという。1675年帰国したチャーチルは宮廷内で姉フランシスと共に美人の誉れ高いヨーク公妃づき侍女(女官)当時15歳のセアラ・ジェニングスに求婚した。天性の美貌(プレイボーイ?)が災いしたのか2年も拒絶され続け、一方的に言い寄るうちにようやく結婚することが出来た。ヨーク公妃づき侍女セアラは、ヨーク公の次女アンと幼い時からの遊び仲間であり、性格の異なる両者はウマが合い、王女と女官という身分意識を捨てて、アンの発案によりアンはモーリー夫人、セアラはフリーマン夫人という名を選んで互いにその名で呼び合う対等で親密なつき合いを続けていった。チャーチルとセアラが結婚して24年後、そのアンが思いがけずイギリス国王になったことが、チャーチルの運命を決定的に変えたのである。

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