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丸屋 武士(著) |
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(1985/11 撮影) |
そこに至る20年余りの歳月もチャーチル夫妻にとって決して平坦な道のりではなかった。結婚して10年たった頃イギリス貴族の要請によってオレンジ公ウィリアムに率いられる2万1千のオランダ軍が侵攻して来た。迎え討つ国王ジェームズ2世の軍の中で最重要人物であったチャーチル(直前にわかに中将に昇進)は最後の瞬間(1688年11月23日)ジェームズの寝所を脱走して400人の将校と共に90キロの道のりを夜を徹して駆け抜けウィリアムの陣営に投降した。これをきっかけに有力者は次々とウィリアム支持を表明、あの血なまぐさい40年前の内乱(清教徒革命)とは全く様相が異なる無血の「名誉革命」になったわけである。即位したウィリアム3世によってチャーチルは伯爵の位を授与されモールバラ伯爵となったが、1692年1月10日、突然国王の寝室係侍従を罷免され運命は急転した。臼田氏が引用する有名なイーヴリンの日記にこの日の出来事は次のように記されている。「モールバラ卿、陸軍中将、寝室係侍従等、軍事その他一切の役職を罷免さる……収賄、強欲その度を越し、ありとあらゆる機会に、部下将校より金銭を強要せし廉による。付記、卿の出世は、すべてジェームズ王の寵による。父親の勲功は、その娘(卿の姉)をジェームズ王に身売りさせしこと。今免職の憂き目に会い、これを憐れむもの絶えてなし。恩義ある君主ジェームズ王を裏切り、見捨てたる最初の人間なればなり。出自は宮内省家政局官吏、サー・ウィントン・チャーチルの息子。」かくしてチャーチルは冷や飯を食うこととなった。 |
それから10年後の1702年、ウィリアムの死によって妻セアラの幼友達アンが王位につくや、セアラは即日女官長に任命され、前述したように即位後数日のうちに夫のジョン・チャーチルはガーター勲爵士に列せられた。ここから二人の運命は大きく展開して、軍事的天才ジョン・チャーチルは大王ルイ14世に鉄槌を下し、軍略家、戦術家として、また戦時為政者、戦時外交家として史上いかなるイギリス人もその右に出る者はいないと評価される(トレヴェリアン)に至った。チャーチルには二人の弟がいて、いずれもまた軍事的才能を大きく開花させた。次男ジョージ・チャーチルは海軍において青色艦隊司令官に、三男チャールス・チャーチルは兄の下でブレナムの戦いに参加し、陸軍中将、ロンドン塔総監、ブラッセル総督に栄達した。 |
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(1985/11 撮影) |
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並び立つ者なき太陽王ルイ14世に鉄槌を下したジョン・チャーチルもブレナムの戦勝から10年たらずで、その運命は暗転し、ついにはオランダへ亡命するという破目に立ち至った。その過程においてチャーチルの妻セアラ・ジェニングスが大きな役割を演じたことは確かである。後に首相ウォールポールから「悍馬」と呼ばれる程、美人ながらむやみに気の強い女性であったセアラが、臼田昭氏の指摘の通り、「モールバラ公爵ジョン・チャーチルの成功の原因の半分をなし、その失脚の責任の大半を担うことになった」。その経緯について、また当時の日本とは全く別世界へと変貌(進化)を遂げたイギリスの「政治的意思決定のプロセス」やそこにおける「メディアの役割」に注目しながら稿を改めてお話をしたい。 |

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