丸屋 武士(著)
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ハーグ市 ビネンホフ宮殿 (2004/12撮影)
 何かと言えば実家(スチュアート王家)をひけらかし、オランダ語を学ぼうともしないメアリーは、兄チャールズ2世の力を頼りに、息子ウィリアム3世の地位の確保をねらったが、共和派の人々やその頭目デ・ウィットは甘くはなかった。デ・ウィットはあらゆる手段を講じてウィリアムがオランダ政治に影響を及ぼすことを阻止するようになった。しっくりしない母メアリーと祖母アマーリアとの関係ではあったが、ウィリアム3世の教育をおろそかにできないことでは一致していて、9歳になったウィリアムは曽祖父ウィリアム1世の設立したライデン大学へ移って個人指導を受けることになった。その後祖母アマーリアはホラント州に対してウィリアムに政治家としての教育を依頼する手紙を書いた。デ・ウィットはこれを渡りに船として、1664年4月、ホラント州が公式に13歳になったウィリアムの教育の責を負うことになった。デ・ウィットは国政の最高責任者(正式な職名はホラント州法律顧問)として、毎日のように同じビネンホフ宮殿の一画に居るウィリアムを訪ね、勉強を監督し、政治についての講釈もした。政治の実際上の機微をもウィリアムに教え、デ・ウィットとしてはウィリアムをオランダ共和国第一の市民に育て上げるつもりであった。この事を機にウィリアムは「ホラント州の子」と呼ばれ、民衆は彼の将来を約束するものと単純に喜んでいたが、実はホラント州が教育の責を負うと議会で決定された時点で、ウィリアムにとっては屈辱的な措置が取られたのである。ウィリアムの教育係ザイレステインをはじめとする親イングランドの人々やウィリアムと親しい人々は全て遠ざけられ、代わりにホラント州議会選任の教育係ヤン・ヴァン・ヘントが配置されて、ウィリアムはハーグの町を出るにもホラント州議会(したがってデ・ウィット)の許可を必要とする身分になってしまった。このような身分上の厳しい制約、母と祖母の不仲等々、思うようにならない事態の数々は、ウィリアムを「武家の統領」たらしめる格好の教室であった。中学生に対する校長先生のような才気煥発、人格高潔のデ・ウィットによる「教育」よりは、思うようにならない事態に対して無関心を装い、不平不満を顔に出さない修業をはからずも強いられたことが、沈黙公と称された曽祖父伝来の卓越した資質に磨きをかける結果となった。デ・ウィットによる表面的なお勉強(御進講というべきか?)よりは『自立心』の著者スマイルズ流に言えば、艱難という万人の為の教室がウィリアムの血肉をなし、最後にはイギリス名誉革命という大業をなし終えて、ウィリアム3世はヨーロッパ中に鳴り響く人物となった。
ハーグ市 ビネンホフ宮殿 (2004/12撮影)

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