丸屋 武士(著)
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フレデリック・ヘンリー像 (ウィリアム3世の祖父)
ヘット・ロー宮殿 正面手前緑地  (2004/12撮影)
 ウィリアムはアルバ公の侵攻と同時に生まれ故郷ドイツのディレンブルグに亡命し、弟のナッソー伯ローデヴェイクと共にアルバ公に対して(直接フェリペ2世に反抗する立場を取らず)戦いを開始する。1572年フランスで起こった余りに衝撃的な「聖バーソロミューの虐殺」事件を契機に、もともとカソリックであったウィリアムは穏健派ではあったがプロテスタント(カルヴァン派)に改宗した。同時にスペインに対する反乱の主導的立場にあったホラント、ゼーラント両州の総督に選ばれて、この二州の行政責任者兼軍司令官にも就任した。1579年スペイン軍に制圧されたネーデルラント南部(現ベルギー)はスペイン領として残り、北部(現オランダ)とは袂を分かった。北部7州は「ユトレヒト同盟」を結成し、最後までスペインに抵抗することを誓ってウィリアム1世をそのリーダーとした。ウィリアムは、スペイン(ハプスブルク家)の天敵フランス(ブルボン家)の仲介を得て、地中海でスペインと戦っている異教徒の国オスマントルコ帝国とひそかに連絡を取る努力をした。超大国スペインに対する弱小国オランダの反乱を国際紛争に拡大化するためである。若い頃皇帝カールの下でフランスとの戦に参陣した際、外交交渉その他政治的能力が高いと評価されたようであるが、ここにおいてその真骨頂を発揮したわけである。これに怒ったスペイン国王フェリペ2世は1580年、ウィリアムを追放処分とした。父が寵愛し、叔母マリアが訓育し、自らも数多(あまた)の貴族の中から抜擢してホラント州等3州の総督に任命したばかりでなく、誉れ高き金羊毛騎士の称号をも与えたのがフェリペである。そのウィリアムがこともあろうに異端(プロテスタント)支援の巨魁となって、反抗、反乱の先頭に立っている状況に、カソリック(正統派)の守護神をもって任ずるフェリペ2世としては腸(はらわた)のよじれる思いであったろう。ウィリアムに向けて暗殺者も放たれた。1581年、ユトレヒト同盟はとうとうフェリペ2世の君主権を否認する統治権否認令あるいは王権喪失宣言とも翻訳される「忠誠廃棄宣言」を発布した。事実上の独立宣言であり、これによってフランスの王弟アンジュー公を招聘した。ところがアンジュー公はオランダ人の思惑に反して独裁者たらんと欲した為、オランダ民衆に反撃されてフランスに逃げ帰る破目となった。このあたりがバタビア人(オランダ人)の真面目というべきか、独立不羈、誰に頭を押さえられることも肯じないオランダの国民性は、世界に冠たる市民文化を築く一方で、政治的には統治しにくい国家をもたらす底流となっていった。1581年7月26日に公布されたこの「忠誠廃棄宣言」こそは「世界最初の自由民権宣言」であり、本シリーズのテーマであるイギリス名誉革命、そしてその後のフランス革命、アメリカ独立宣言等の思想的源流とでも呼ぶべき宣言である。駄足ながら付言すれば、「アメリカ独立宣言」をもとに1787年(天明7年)起草されたアメリカ合衆国憲法は本シリーズ2で言及したイギリスの大政治家グラッドストーンによって、「人間の頭脳が、ある目的のために、かぎられた時間で生み出した最高の傑作」と呼ばれた。前シリーズ(シリーズ11)で一部を紹介した「イギリス国民に対するオレンジ公の宣言」は、この忠誠廃棄宣言を下敷きとしたものである。結局、我々日本人が二百数十年の太平安楽によって学習機会を逃し、未だにそれを理解する「生活感覚」、「皮膚感覚」を持てずにいる「自由民権」という思想のルーツがこれであり、長文の一部を岡崎久彦氏の訳文をそのまま借りて敢えてここに紹介したい。
 ウィリアム2世像(ウィリアム3世の父)
ハーグ市 ビネンホフ宮殿入口前  (2004/12撮影)
 「人間は君主のために神に創られたのではない。人間は、君主の命令が敬虔なものであっても背信的なものであっても、あるいは正しくても誤っていてもそれとは関係なく、君主の命令にしたがい、奴隷として君主に奉仕するため神に創られたものではない。反対に君主は、人民なしでは君主というものは存在しないのであるから、父が子にするように、牧人が羊にするように、正義と公平をもって人民を養い、保護し、統治するためにあるものである。  この原則に反して、その人民をあたかも奴隷のように統治しようとする者があれば、その者は専制者と見なされ、もし人民が謙虚な態度の懇願や祈りによっても元来の権利を保障できず、他に方法がない場合は、とくに各州の決議による場合は、その者を拒否し、または廃位させることが出来る」

 人類にとって記念すべきこの「忠誠廃棄宣言」が発せられ、単なる反乱(謀叛)が世界史を彩る独立宣言になってから丁度300年経った明治15年(1882年)、自由民権運動の主導者であった板垣退助は岐阜県の遊説先で暴徒に刺された。その時、板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われている。ウィリアム1世に率いられたその後のオランダとは違い、この事件は日本史における一小項目「自由民権運動の高まり」という程度のインパクトで終った。泉下において福沢、板垣公開討論会が開催されれば面白かろうと思うのは筆者ばかりではあるまい。更にそこに山縣有朋と中江兆民が加わればなお面白かろうと思う。卓話室Tシリーズ8で紹介したような政治活動が2400年前のギリシャでは行われていた。「自由民権」と聞いてピンと来るような「生活感覚」、「皮膚感覚」を備えた日本国民が出現するのはいつのことであろうか。

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