丸屋 武士(著)
(2005年2月)
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 ウィリアム1世が暗殺者の凶弾に倒れてから36年後の1621年、彼の息子マウリッツは「天成の名将」と称賛され、オランダはほぼ独立を達成していた。この時期、人々が建てたウィリアム1世記念碑の碑文(墓碑銘)をここに紹介したい。




 ”偉大にして善き神のために、そして自らと自らの家族の繁栄よりもネーデルラントの繁栄の方を選んだわが国の父、オレンジ公爵、ナッソーのウィリアムのために。彼はほとんど自分の経費負担で、二回にわたって軍隊を挙げた。彼はスペインの専制を駆遂し、諸州を指導した。彼は真の信仰と、この国の古来の法を回復した。彼は彼の遺徳の継承者であるマウリッツ公によって、この国の自由を完全に達成させるようにした。 オランダの各州は彼のためにこの記念碑を建て、ヨーロッパの恐怖であったスペイン王のフィリップ二世が、これを怖れながらも屈服させられなかったために、卑劣にも暗殺者を雇って殺した、この真に敬虔な、思慮深い、 無敵の英雄の記憶を永遠に記念するものである。”
 1650年(慶安3年―由比正雪の乱の前年)11月、本編の主人公ウィリアム3世はオランダの政庁所在地ハーグ市ビネンホフ宮殿の一室で誕生した。父であるオランダ連邦共和国総督ウィリアム2世が24歳の若さで天然痘にかかって急死して8日目、まだ遺体は埋葬されていなかった。オランダというよりは「ヨーロッパの武家の統領」とでも評すべきオレンジ家(オランダ語でオラニエ家、フランス語ではオランジェ家)は、このウィリアム3世の曽祖父ウィリアム1世(別命ウィリアム沈黙公)が超大国スペインに対する独立戦争の旗印を揚げ、オランダ独立の礎(建国の父)となっていた。ウィリアム1世は1533年、ドイツ西部(現在のヘッセン州)ヴィースバーデン近くのナッソウ―ディレンブルク伯ウィルヘルムの城館においてその長男として生まれた。11歳の時、世継ぎがなくなった本家シャロン―ナッソウ伯の広大な所領(フランス南部にあるオレンジ公爵領やネーデルラントにあった多数の荘園等)を相続し、それを許可した神聖ローマ皇帝カール5世の意向に従ってドイツからネーデルラントに居を移した。ネーデルラントの執政マリア(カール5世の妹)の訓育を受け、ウィリアムはフランス語、オランダ語を母国ドイツ語と同様に話す物腰優雅な青年に成長した。18歳で大所領を有するエグモント伯ファン・ビューレン家の長女と結婚して、ネーデルラントで最も富裕な貴族となり、皇帝カールには格別の寵愛を受けた。やがて神聖ローマ皇帝カール5世は退位して(その退位式でカールはウィリアムの肩にすがって現れたという)、オーストリアはカールの弟フェルディナンドが承継し、スペインとネーデルラントは息子のフェリペ2世が相続した。1559年フェリペ2世はウィリアムをホラント、ゼーラント、ユトレヒト3州の総督に任命した。この前年妻を亡くしたウィリアムは1561年、前妻よりもさらに富裕なザクセン選帝侯マウリッツの娘と結婚して、ネーデルラント随一の財力は増々大きなものとなった。1566年、狂信的なカルヴァン派が起こした聖像破壊運動に対して、カソリックの守護神フェリペ2世は、異端鎮圧のためネーデルラントの執政としてアルバ公を起用した。アルバ公は翌年、ネーデルラントにスペインの正規軍(屈強のフランドル軍)1万を投入して異端(プロテスタント)に対する徹底的な弾圧を行った。用兵も巧みなアルバ公の恐怖政治によって処刑された者8000、国外に逃亡した者10万と言われている。日本でも同じ頃、織田信長が伊勢長島の一向宗徒を2度攻撃して成功せず、3度目には9万余の軍勢を率いた信長がついに立て籠った一向宗徒2万を殲滅した。信長の命を受けた前田利家は越前の一向宗徒1000人余りを磔、釜ゆでの刑に処すという出来事もあった。異端審問はもともとスペインの制度である。カソリック教会で行われる説教に出席せず、自宅でバイブルを読んで礼拝している者、ローマ教会の悪口を一言でも言った者、他人に言わなくても頭の中にあった考えで、裁判でその考えがあることを認めた者(拷問によって認めさせるのが通例)、全てが異端である。異端者と決まれば、老若男女を問わず、改悛すれば男は絞首刑、女は生き埋め、改悛しなければ男女とも火焙りという単純明快な制度であった。
デルフト市 プリンセンホフ市立博物館
(ウィリアム1世の居館)
 ここを居館としていたウィリアム1世は暗殺者の凶弾に倒れた。1階から2階へ上がる階段の壁に弾痕が残っている
(内部は撮影禁止)後方に聳えるのは旧教会(2004/12撮影)

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