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| 丸屋 武士(著) |
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インフルエンザがもとで死去したとされる護国卿クロムウェルは歴代国王が眠るウェストミンスター寺院に葬られた。ところが王政復古となって1661年、本文で述べたように、極悪人として墓からひきずり出された。絞首台に吊された上、その首は寺院の尖柱の上に長年晒されていた。嵐で落下した頭蓋骨は、防腐処理されて好事家の手を渡り歩いたが、ついに革命から300年余りたった1960年、母校シドニー・サセックス カレッジの礼拝堂にひそかに埋葬された。シリーズ9でも言及したように父の死によって1年しか在学できなかったクロムウェルは、清教徒革命の際はここを東部の拠点として用い、同カレッジ学長を親国王派として逮捕、投獄した。
同カレッジはサセックス伯夫人フランシス・シドニーの遺産を基に設立された。女性の紋章は菱型であり、5つの銀の玉をのせた冠は、本シリーズ6で説明したように、伯爵であることを示している。 |
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| 1590年代に始まったオランダ経済の急成長によって、海洋貿易国オランダはアジア産の香辛料や絹織物、ブラジル産の砂糖や染料を全ヨーロッパに売るばかりでなく、バルト海域で買いつけた穀物を地中海域で売り、木材や塩、塩漬けにされた樽詰めニシン等がヨーロッパ中を販路とした。アムステルダムは「世界の倉庫」となり、その上オランダの海運業は圧倒的であった。当時の駐オランダフランス公使は「世界の船舶2万隻のうち、オランダが1万ないし1万6000を所有する」と本国に報告したという。他国の半分か三分の一という安い海上運賃で十分利益をあげ、オランダは「世界の運搬人」といわれる地位を築き上げた。海運業の発展は造船業の発展を促し、造船技術の発達によってオランダはヨーロッパ一の造船国となった。ロシアのピュートル大帝が1697年、身分を偽って4ヶ月間アムステルダムで「船大工」としての修業を実践したことは前述した通りである。
一方、毛織物工業が、中世から産業革命期までのヨーロッパで最も重要な工業であり、貿易と並ぶ「富の源泉」であった。この分野でもオランダが他の追随を許さない圧倒的な技術力を誇り、ライデンで開発された薄くて軽い上質の「新毛織物」の技術はイギリス人にはどうしても教えてもらえなかった。昨今のIT産業その他をめぐる競争と同じく、時代を越えて、先端産業をめぐる闘いの様相は全く変わっていないようである。付加価値の低い、要するに儲からない原料や半加工品を輸出するだけのイギリス人は、6月から12月まで3万人ものオランダ人漁師が目と鼻の先のイギリス近海でニシンを獲りまくるのを指をくわえて眺めていた。 |
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シドニー・サセックス カレッジ 学都ケンブリッジの景観を高めているのは、地元でバックス(Backs)と呼ばれているケム川沿いの緑地である。冬でも枯れることのないこの緑の草地からケム川ごしに300メートル程奥になるシドニー・サセックス カレッジを望む。 (2004/12撮影) |
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| オランダにとって漁業は父祖代々の基幹産業であり、今頃になってイギリスが提案する入漁許可制を受け入れてイギリスに入漁料を払うことなど到底呑めない話であった。無限のニシンはオランダの「海の金鉱脈」と呼ばれ、その漁獲高がイングランド産毛織物の輸出総額に匹敵するという現実を前に、イギリス人はただ悔しくて妬ましく、オランダのことを「商売人の国」「商人(あきんど)の国」と呼んで悔しさを紛らしていた。この商売人、あきんど、という言葉には、日本の「士農工商」という位階秩序を想起させるような、貧欲、狡猾、その他諸々の悪徳を含む侮蔑の意味が込められていたことは間違いない。
エリザベス1世の時代からイギリスはオランダの対スペイン独立戦争を支援して来た。しかし支援したとはいっても、それはイングランドの国益に基づく政策の一環であり、その限りにおいての支援であった。超大国スペインの脅威に対抗する為には発展途上国イングランド単独では力不足であり、一方オランダを含む低地地方(ネーデルラント)をスペイン(後にはフランス)に支配されることはイギリスの安危にかかわる一大事となるからであった。超大国スペインに対して発展途上国として共闘(裏では絶えず足の引っ張り合いを続けていた)して来たつもりのオランダが今や世界貿易の覇者となってイギリスはどうしても追いつけない。オランダに対して憎い、悔しいの思いが募っての英蘭戦争であった。新聞が煽り、テレビが騒ぐということは全くない時代であったが、オランダ憎し、オランダ討つべしという世論が大きなうねりとなってオランダに襲いかかったのである。 |

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