丸屋 武士(著)
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ケンブリッジ風景(2004/12撮影)
左側はセントジョーンズ カレッジ
 イギリス海軍の眼を盗んで細々と海外貿易を続けるだけのオランダ経済は一気に窮乏化した。一方イギリスもトロンプが倒れた海戦において勝利はしたが損害も大きく、海上封鎖網にほころびが出たばかりでなく、バルト海、地中海の貿易は依然としてオランダの手の中にあった。だが全般的には勝ったつもりのピューリタン政権(共和国政府)がオランダに突きつける講和条件は極めて厳しく、和平への道は難航した。オランダに対して結果的に救いの手を差しのべたのは、皮肉にも議会を解散して護国卿に就任し、独裁体制を布いたクロムウェルであった。クロムウェルは自らの理想として英蘭両プロテスタント国の反スペイン同盟を希求していたし、実際西インド諸島に遠征隊を送り込んで、ここを支配しているスペインと戦ってジャマイカを占領した。これは後日、大英帝国の西インド植民地経営のための大きな布石となった。1654年4月に成立したウェストミンスター条約によって終結した第1次英蘭戦争は、ドーバー海峡を通過するオランダ船に英国軍艦に対して敬礼をする義務を課し、航海条例はそのまま残す、というどちらかと言えばオランダに寛大な結果で終ることになった。アンボイナの件は説明を省略したい。この平和条約締結に関してクロムウェルがオランダに突きつけた条件の一つがオレンジ家を「総督」の地位から永久にはずすということであった。条約締結に至るまでのデ・ウィットとクロムウェル、デ・ウィットとホラント州議会、親オレンジ家の人々等々との遺り取りや駆け引きについての話は史書にくわしく、ここでは敢えて言及しない。
(1985/11 撮影)
 要するにクロムウェルとデ・ウィットとの思惑が完全に一致してオレンジ家は「総督」職から永久にはずされた。クロムウェルは、自らが倒したスチュアート王家と直結するオレンジ家(ウィリアム3世の母メアリーはチャールズ1世の長女)が力をつけ、イギリスの政治に影響を及ぼすことは絶対に避けねばならなかった。そうでなくてもヨーロッパ中の王侯貴族から恐怖と憎しみの目を向けられていたクロムウェルである。片やデ・ウィットの政治家としての大目標は前述した通りであった。「完全なる共和制」を追求するデ・ウィットはオレンジ家の独裁を恐れるばかりでなく、オレンジ家を通じてイギリスがオランダの内政に口出しすることに対しての警戒もあった。

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