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| 丸屋 武士(著) |
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ウィリアムT世霊廟前面の紋章(観光パンフレットより) |
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| ホラント州の圧倒的優位が貫かれているオランダ連邦議会の「運営システム」は、かの有名な「連合東インド会社(VOA)」の運営システムとも「実勢重視」という点においてピッタリ一致している。1601年、アムステルダム、ゼーラント(ミデルブルグ)、ロッテルダム、デルフト、ホールン、エンクハイゼンの6つの都市の会社が合併して近代株式会社の起源「連合東インド会社」が設立された。「ジェントルマン17人」と呼ばれ、同社の全てのことを決定した執行役員17名の内訳は、アムステルダム8名、ゼーラント4名、他の4つの都市各1名、残り1名はアムステルダム以外の5都市から交互に選ばれた1名、合計17名であった。出資比率(アムステルダム57%、ゼーラント20%)に見合った人数割である。これこそ余談になるが、ヤキトリ(モツ焼き)のタンやハツは英語のtongue、heartがなまった立派な日本語となり、オランダもホラント(Holland)がなまったレッキとした日本語のようである。正式にはネーデルラントのホラント州の人々は「おらんだ人」と呼ばれて面喰うであろう。「おはいりなさいはカミン(come in)です」といった調子のてっとり早く、実用的な英語教育が明治時代には行われていた。「メリケン波止場」など響きのいい言葉があるではないか。 |
| オランダは既に1609年スペインとの12年間と決められた休戦協定を締結することによって実質的にはほぼ独立を達成していたが、ウィリアム3世誕生2年前の1648年、世界最初の国際条約と呼ばれるウェストハリア条約の調印によってオランダとスイスの独立が国際的に承認された。 |
| 戦争を継続しながらミュンスターに集まって来た各国の代表が、国庫はスッカラカンであることを隠して虚勢を張り合い、毎夜乱痴気騒ぎを演ずるという愚行をくり返して、10年かかって締結された条約である。この条約はまた「超大国スペインへの弔鐘」、「ドイツの死亡診断書」とも呼ばれている。 |
 新教会ステンドグラスに描かれた ウィリアムT世像(観光パンフレットより) |
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| このような事態の推移に勢いを得たホラント州議会はそれまで大半を負担して来た軍事費を一方的に削減し、時の「総督」ウィリアム2世を軽んじて挑戦的態度をとり始めた。アムステルダム市はウィリアム2世に次のような書簡を送ったという。「総督は州の召使いであって主人ではない。命令にしたがうべき者は総督である。アムステルダムは現在の平和の果実を楽しむことを欲するものであり、それは不必要かつ無規律の軍隊を維持するならば不可能となる。」これに対して若冠24歳の総督ウィリアム2世は、かつて伯父(父の異母兄)モーリスが自らを若年の頃から指導者として育ててくれたオランダ独立最大の政治的功労者であるバルネフェルトを逮捕し処刑したように、ホラント州の指導的政治家6人をクーデター的な挙にでて一斉に逮捕した。この逮捕された6人の中にドルドレヒト市長ヤコブ・デ・ウィットが入っていた。ウィリアム2世が天然痘にかかって急死しなければ6人の政治家は処刑された可能性が高い。そして、総督ウィリアム2世の急死によって激変したオランダ政界に彗星の如く登場したのが不世出の政治家ヤン・デ・ウィットである。逮捕されたドルドレヒト市長の息子ヤン・デ・ウィットはライデン大学で法律と数学を学び、この事件がおきた1650年(25歳)までハーグで弁護士を開業していた。父ヤコブが市長を務める故郷ドルドレヒトの法律顧問就任を政治的跳み台として、ヤンはあっという間にオランダ政治の中枢に到達した。
歌や楽器、あらゆるスポーツに長じ、とりわけ乗馬に優れるばかりでなく、ヤン・デ・ウィットは数学においてはニュートンやホイヘンスにも称賛され、「円錐曲線」に関する研究論文はデカルトの『幾可学』ラテン語版に付加される水準にあった。歌や楽器がセミプロ的で、剛弓を操り、馬上槍試合の強豪でもあったイングランド国王ヘンリー8世を連想させるような人物である。デ・ウィットが政界に進出して3年たらずの1653年、オランダは俄に国家的非常事態を迎えることになった。前年勃発した第1次英蘭戦争の戦況が悪化して、後述するように、過度に海外貿易に依存するオランダ経済が忽ち窮迫したのである。今日の日本でいきなり輸出入が3ヶ月停止するのと同じで、混乱は想像を絶するものとなる。ホラント州が総督ウィリアム2世の意向を無視して一方的に軍事費を削減してから、何年も経たないうちにこのような事態を招いたのは、いかにも皮肉なことであった。この危機的状況のさなか、1653年7月、10人の候補者の中から、溢れ出る才能と高潔な人格の持主として28歳のデ・ウィットが満場一致でホラント州法律顧問に選出されたのである。そのことは前述したように、オランダの政治システムにおいては、デ・ウィットが、オランダ連邦共和国の財政及び外交の執行責任者(首相的な役割)になったことを意味する。 |

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