丸屋 武士(著)
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 オレンジ家代々の墓所。ウィリアムT世が暗殺された時、オレンジ家の墓はスペイン軍が占領しているブレダにあった。やむを得ずここデルフトの新教会(旧教会はカソリック教徒用か?)に埋葬され、以後今日に至るまでオレンジ家代々の墓所となっている。但し本編の主人公ウィリアムV世はイギリス(イングランド)国王となった為、歴代イギリス国王と同じく、妻メアリーU世女王と共にウェストミンスター寺院に葬られている。
 エリザベスT世がオランダ支援の為に地上軍を送った際、同時にデン・ブリルなど3都市を担保に800万フローリンの借款をオランダに供与したという。エリザベスの後を継いだジェームズT世が浪費癖のため現金に困っていることを知った練達の政治家バルネフェルトは、ジェームスがこういう事に暗いのに乗じて、272万8千フローリンなら即金で払うといって3都市を取り戻した。借金の三分の一で担保物件(?)を取り戻したのであるからオランダはいい取引をしたと自慢したが、欺されたと気づいたジェームスは、その後決してオランダを許さず、同じような事がいくつかあって、イギリス人はオランダ人を詐欺師の国民と考えるようになったという。太平洋戦争の頃は日本でも「鬼畜米英」という言葉がしきりに使われたが英蘭戦争の頃のイギリス人のオランダに対するイメージは「血も涙もない高利貸であり、かつてはハンザ、フランドル、ブラバンド、スペインの死屍の上に繁茂し、今は傷ついた英国の富の上に繁栄し、飽食している吸血鬼」であったという。「鬼畜」も「吸血鬼」も似たようなメンタリティーから発せられる言葉である。
 1651年3月、イギリスの清教徒政権(共和国政府)はハーグに使節を送り、同じプロテスタントとして単なる同盟以上の恒久的な連合関係(場合によっては両国の合体)を提案したが拒絶された。海上貿易の覇者である「あきんどの国」オランダは、海外貿易の利権や漁業権のような目前に対立している利害の方が反カソリックという共通点よりは重大な問題であると捉えていたからである。その商人的判断がいかに高くついたか、間もなくはっきりする。連合案を断られたイングランドの議会(残部議会)は航海条例を制定した。オランダを中継貿易から締め出し、海上で出会う他国の船にイングランドの船に旗を下げて敬意を表することを要求する内容の法律である。
デルフト市内の町並み(2004/12撮影)
 1652年5月中旬、こういう雰囲気の中でついにイングランド艦とオランダ艦との軍事衝突が起こった。「あきんどの国」オランダはこれを偶発的事件として処理しようと使節を派遣し、交渉を提案したが、始めから戦争をする肚(はら)を固めているイギリスは、終始高圧的で強硬な態度を崩さなかった。やむを得ずオランダ使節は本国に召還され、7月6日、オランダの名将として1639年スペインの無敵艦隊を壊滅させた国民的英雄トロンプ提督に、イギリス艦隊攻撃命令が下った。海を隔ててそう遠くないこの時の英蘭の戦は海上戦であり、オランダ独立戦争で戦ったスペイン戦や後のフランスとの戦争のような地上戦は一度もなく、しかも当時の軍艦は大型艦であれ小型艦であれ全て帆船であった。火力の優劣や艦隊の展開能力と共に、突然変わる「風向き」も戦闘の帰趨を決する大きな要因であったことを忘れてはならない。1652年11月にはトロンプは成功して一旦は英仏海峡の制海権を手にした。しかしながら翌1653年前半、イングランド艦隊が勝利して優勢となり、オランダは主要港を封鎖されてしまった。経済を支えて来た海外貿易が停止し、銀行や企業が倒産し、それに伴って労働者の解雇が相次いで、失業者は強盗、掠奪に走るようになった。この危機的状態の中で7月、前述したように28歳のヤン・デ・ウィットがオランダ連邦共和国の舵取りに就任したのである。デ・ウィットから出撃命令を受けたトロンプは10月、テセル島沖の海戦でモンク提督指揮のイングランド艦隊に敗れ、自らも敵弾に倒れた。この第1次英蘭戦争を全体として見ると、オランダの国民から敬愛する父と呼ばれていた名将トロンプと、イギリス海軍史上ネルソン、ドレイクと並んで三傑と称えられているブレイク提督との好勝負であったと言うことができよう。

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