| 1584年、反乱(独立)の主導的地位を占めるホラント、ゼーラント両州は、(おこがましくも)権限を制約した上で、ウィリアムに伯爵の称号を与えるという申し出をした。これに対して返答をする前の7月10日、デルフトの居館(現在のプリンセンホフ市立博物館)にいたウィリアム1世はカルヴァン派をよそおって近づいた暗殺者、狂信的カソリック教徒ジェラールが至近距離から発した三発の凶弾に倒れた。「私は死ぬ。神よわが魂に恵みを垂れ給え。わが哀しき民を救い給え。」と言って51歳の生涯を閉じたという。
オランダの独立と自由(Liberty)のために尽瘁した民族の英雄の最後であった。フランドル軍の殺戮と掠奪の実態、その圧倒的武力が恐ろしくて立ちすくむ市民、反抗よりも降伏を選んだ挙句に四肢を切り刻まれる市民の姿、遂に立ち上がって何ヶ月もの籠城戦を英雄的に戦う市民の心意気、ナールデン、デンブリル、ハーレム、ライデン等における出来事は、それぞれが壮大な叙事詩であり、岡崎久彦氏の名著『繁栄と衰退と』に感動的に描写されている。
雄大凛然たるウィリアム1世の生涯とオランダ独立の怒濤の歴史についてはこれ以上この小論で語り得ることではなく、話を本編の主人公ウィリアム3世に戻したい。オレンジ家の人々はウィリアム1世以来、代々オランダ連邦共和国の「総督」に選任され、スペインとの独立戦争の陣頭に立ち続け、同時に共和派(議会派)と対峙し続けて来た。ウィリアム1世の息子モーリス(オランダ名マウリッツ)は「天成の名将」と全ヨーロッパ(全世界)から称賛され、その異母弟フレデリック・ヘンリー(オランダ名フレデリック・ヘンドリックス)、そしてその息子のウィリアム2世まで、いずれも傑出した政治指導者、軍事指導者を輩出した。とりわけウィリアム3世の祖父フレデリック・ヘンリーは穏やかな気質と優れた外見によって人気が高く、戦術家、軍隊指揮官として異母兄モーリスのように卓越し、政治家、外交家として父ウィリアム1世に優るとも劣らずと称賛されていた。1631年、連邦議会はオレンジ家による「総督職の世襲」を法制化し、ヘンリーに「殿下」の称号を贈るに至った。既にヘンリーは息子(ウィリアム2世)の嫁としてイングランドから国王チャールズ1世の娘メアリーを迎えており、これらのことからオレンジ家がオランダ王家という形勢になった。 |