丸屋 武士(選)
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セオドア・ルーズベルト大統領
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)
  そのセオドア・ルーズベルトは1858(安政5)年に生れたが、どちらかと言えば虚弱な少年で、痩せてぜんそく持ちである上に近眼でもあった。ニューヨーク有数の名家(富豪)の主たる父親は心配して自邸の二階に体育場を設け、姉や弟達遊び仲間と長男のセオドアはボクシングやレスリングに励み、 祖父の屋敷に出掛けては乗馬や射撃に精を出した。10歳と14歳の時には長期のヨーロッパ旅行も体験した。卓話室IIのオランダ話(シリーズ15の7頁)でもお話したように、公立の学校には行かず 、家庭教師による教育を経てハーバード大学に入学、ハーバードではボクシングに熱中したという。卒業した年(1880年)の秋19歳のアリス・リーと結婚、翌年(23歳)にはニューヨーク州下院議員に当選した。州議会の置かれているニューヨーク州の州都はニューヨーク市から約260キロ離れたアルバニーであり、1884年2月、アルバニーに居るルーズベルトのもとに妻アリスの女子出産の電報が入った。喜んでいたルーズベルトは何とその数時間後、母とアリスがチフスで危篤であるというこの日2度目の電報を受け取ったのである。列車で5時間かけてルーズベルトはニューヨークに戻ったが、翌朝母(50歳)が死去、昼には妻アリスが死亡した。
 3ヶ月後の5月シカゴで共和党全国大会があり、傷心のルーズベルトはニューヨーク州代議員として出席したが自ら肩入れする上院議員は大統領候補には指名されなかった。ルーズベルトは政界を引退する決心をしてシカゴからニューヨークには戻らず、そのままダコタ准州に向った。悄然とした姿を人前にさらすことを いさぎよ しとせず、人里から離れた所に住み、厳しい自然と孤独の中で自分の精神も肉体も鍛え直そうと思ったからである。一担ニューヨークに戻ったルーズベルトは生後5ヶ月の長女アリスをボストンの祖父母に預け、そのままダコタに向った。数頭の馬に4種類の銃、2000発の弾丸、食糧、野営用具等を乗せ、47日間一人山中で過ごし、馬上での行程は1600キロに及んだ。ここダコタの地で第7騎兵連隊カスター中佐以下256名がスー族に襲われ全滅したのは、ほんの8年前の出来事であった。そのダコタ准州に多額の資金を投入して24歳のルーズベルトは数千頭の牛を放牧、飼育する牧場のオーナーとなったのである。
 1885年11月、27歳になったルーズベルトは妹コーリンの無二の親友であるエジス・キャローとロンドンで結婚式を挙げるため渡英する。エジスと15週間、英仏伊を巡り1887年3月帰国、再び西部ダコタへ戻ると、前年来の寒波のため所有する3000頭を越す牛が死亡、それまでに投資した8万ドルの半分を失ってしまった。その8万ドルは親の遺産の半分にも達し、そのことで周囲を心配させていたルーズベルトであった。このダコタにおけるルーズベルトの牧場は2ヶ所あり(現在はセオドア・ルーズベルト記念国立公園になっている)、4000頭の牛を集める時には60人のカウボーイを雇ったが、ルーズベルトは雇ったカウボーイ以上に自らに厳しい労働を課した。自身が馬上で1日160キロ移動することや、一晩中の馬上での夜警をもいとわなかった。早暁3時のせわしない朝食の後、すぐに仕事に出て5頭の馬を乗り換え(1頭では馬がつぶれてしまう) 、連続的に40時間以上馬上にいることもあった。牛の狩り集めの時期には、野営を含めて32日間馬上生活を送ってその行程は1600キロにも及び、まさに映画『ローハイド』の世界にどっぷりと浸かったルーズベルトであった。「禅の修業」にも通じるようなこの厳しい体験は、富豪の家に生まれ育ったルーズベルト青年にとって、後に合衆国国民のリーダーとなる為の「必須不可欠の修業」であったと言えよう。
 冬は零下20度を越す厳しい自然と孤独の中で、20代後半の自らの心身を鍛え直したルーズベルトは天性の資質に磨きがかかり1888年(30歳)、前述したベストセラー『西部開拓史』を出版した。この年の大統領選挙では共和党大統領候補ベンジャミン・ハリソンの応援者として、ルーズベルトはイリノイ、ミシガン、ミネソタへ遊説した。ハリソンは当選し、ルーズベルトの生涯の親友ロッジ(アメリカ政界屈指の名門の当主)は新国務長官ブレインにルーズベルトを国務次官に採用するよう求めたが断られた。やむをえずロッジは大統領ハリソンに直接かけあって結局、官吏制度改革委員会委員(Civil Service Commissioner)としてルーズベルトは不満足ながらアメリカ合衆国政府機関の一画にはまった。
 金子堅太郎がワシントンで初対面の挨拶をしたのはこの直後の1889(明治22)年、ルーズベルト31歳の出来事であった。二人はこの初対面以来親しくなり、金子が日本に帰国した後もクリスマスカードを交換したり、時には手紙を交換する交際が続いたという。前述したように驚異的筆まめであったルーズベルトは15万通の書簡を残している。1896(明治29)年、38歳のセオドア・ルーズベルトは海軍次官補に就任して海軍の拡充に力を注ぎ、軍備に積極的なその言動によってしばしば物議をかもした。1898年米西戦争が勃発すると、彼は職を辞してキューバに赴き、フリー・ライダース(荒馬騎馬隊)という義勇軍を組織してスペイン軍に対し勇戦し、一躍アメリカの国民的英雄となった。蛇足ながら、ウィリアムはビル、ロバートはボブ、リチャードはディックと呼ばれるようにセオドアはテディーと呼ばれる。今日でも子供達に人気の高い熊のぬいぐるみ人形「テディー・ベア」はこのセオドア・ルーズベルトに因むものである。米西戦争後ニューヨーク州知事に当選したが、ニューヨーク政界の保守層は全米的人気の高いルーズベルトを煙たがり、1900年の大統領選挙におけるマッキンリー下の副大統領候補に棚上げしてしまった。ところが当選したマッキンリー大統領は1901(明治34)年9月就任間もなくして暗殺され、セオドア・ルーズベルトはついに43歳にしてアメリカ合衆国第26代大統領に就任した。博覧強記、歴史学者、博物学者としても一流の域にあったルーズベルトは卓話室IIのオランダ話で紹介したオランダの生んだ「不世出の政治家」ヤン・デ・ウィットを彷彿とさせる人物であった。1066年のウィリアム征服王以来初めてイギリス本土襲撃に成功、イギリス海軍旗艦を分捕ってオランダに持ち帰らせた「チャタムの屈辱」という鉄槌をイギリスに下したあのデ・ウィットである。スポーツ万能、しかもルーズベルトと同じく乗馬とテニスを得意としたデ・ウィットは数学者としてニュートンやデカルトにも称賛されるレベルにあった。金子堅太郎がビゲローの紹介状を手に初対面の挨拶をしてから12年後にルーズベルトは大統領に就任し、その3年後に日露戦争が勃発、前述した通り1904(明治37)年3月26日、ホワイトハウスにルーズベルトを訪ねた金子堅太郎は、実に15年ぶりに運命的な再会をしたのであった。
          (シリーズ14に続く)
(2006年5月)

≪参考文献≫
松村正義著『日露戦争と金子堅太郎−広報外交の研究』  
(新有堂)1980年刊
軍事史学会編『日露戦争1』       (錦正社)2004年刊
谷光太郎著『米国東アジア政策の源流とその創設者       
セオドア・ルーズベルトとアルフレッド・マハン』
(山口大学経済学会)1998年刊
入江寅次著『邦人海外発展史』     (原書房)1981年刊
徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傅』  (原書房)1969年複製
フランク・F・チュ−マン著、小川洋訳『バンブー・ピープル』
(サイマル出版会)1978年刊
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