丸屋 武士(選)
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 イロド・アティクスの音楽堂
(写真提供「のこのこ旅の情報ノート」)

 アメリカにとって次の戦略目標(仮想敵国?)ともなり得る日本の海軍参謀秋山中佐の起草した名文をアメリカ合衆国全国民に読ませようという大胆不敵、卓越したリーダーシップを発揮したルーズベルトは、1908(明治41)年には合衆国大西洋艦隊に初の世界一周航海を命じた。その目的とするところは、英国海軍についで世界第二の海軍力を持つに至った新興アメリカ合衆国の姿を世界に誇示すると同時に、太平洋の彼方の日露戦争に勝ったばかりの日本を威嚇することにあった。日本政府はそのルーズベルトの肚の中をよく承知しながら、幕末以来の屈辱や苦労によって培った知略を発揮して、寄港したアメリカ水兵を10月の1週間官民あげて歓待し、アメリカとの修好に努めた。この時現在の桜木町駅周辺その他横浜市内にはイルミネーション(電光飾)が輝き雰囲気を盛り上げた。丁重というべきか、腫れ物に触るような日本政府のその態度は1892(明治25)年、清国北洋艦隊が丁汝昌提督に率いられて横浜に寄港した時の対応とほぼ同じものであった。清国北洋艦隊が横浜入港に際して発射した礼砲の轟音を聞いた日本人は震え上がり、その主力艦「定遠」「鎮遠」という日本では見たこともない巨大な西洋式軍艦を目にした日本人は肝を潰した。
 余談になるが、日本を威圧するために態々来日した北洋艦隊ではあったが、それら主力艦は清国が西洋から買ったものであった。同じように日露戦争の連合艦隊旗艦「三笠」をはじめ主力艦「敷島」「富士」「朝日」等全てイギリスから購入した軍艦であり、日本が鋼鉄製の軍艦を作れるようになったのは日露戦争が終結した後のことであった。ついでに言えば、当時の国家予算は3億円たらずであったが、日露戦争の戦費は陸海軍事費17億460万円、各省臨時事件費2億3800万円、計19億4200万円に達する巨費であった。この国家予算の6倍を越える巨額の戦費を賄うために5回にわたって国債を募り4回もの外債募集を行って、結局大半の資金は外国から借りて賄われた日露戦争であった。初期の外債募集に当った高橋是清の苦心と活躍は周知のことである。政府は、それまであめ玉やサイダーのように自由に製造販売されていたタバコに対して煙草専売法を制定して税金を徴収し、タバコ会社は潰されてしまったが、そうした措置によって得られた資金は微々たるものであった。
 本題に戻ると、日露戦争終結のための仲介、調停の労を含めて、大政治家ルーズベルトの上記のような一連の行動の基底をなす雄勁闊達な精神は、本人の比類なき資質によるものではあるが、同時に、キリスト教、古ゲルマンの慣習、なかんずく古代ギリシャの伝統を包含するヨーロッパ文明の精華が発露した典型と言えよう。卓話室Uのオランダ話でも紹介したが、ルーズベルトは生涯自分がアングロ・サクソン系でないことを吹聴し、オランダ系移民伝統のニッカズボンを愛用した。1905(明治38)年の春、馬に乗って4週間も野営をしながらコロラドの山中に分け入った大統領ルーズベルトは、6頭の大熊(体長2メートルを優に越えるグリズリーベアー)を自らの銃で仕留めた。その中の最大の熊の毛皮を日露の戦勝を祝して明治天皇に贈呈し、返礼に明治天皇は緋縅鎧(ひおどしのよろい)を送ったという。ルーズベルトのこのような尚武の気性は、古代ローマ人から一目も二目も置かれ、誰に頭を下げることも肯んぜず、奔放不羈をもって知られたバタビア人(古代オランダ人)の血筋を反映するものであろうか。そのセオドア・ルーズベルトの言動に表出したヨーロッパ文明の源流の一つは間違いなく古代ギリシャの伝統であることを教えてくれるのが、ここに紹介するペリクレスの国葬演説である。そこに表明されるあくまで開放的、雄勁闊達な精神は、「因循姑息」の外部世界の者には想像もつかない都市国家アテネの力の源泉であった。

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