丸屋 武士(選)
   4      10

アテネ パルテノン神殿
 (写真提供「のこのこ旅の情報ノート」)
(中略) また、戦の訓練に目をうつせば、われわれは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われわれは何人にたいしてもポリスを開放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれわれは持っていないのだ。なぜかと言えば、われわれが力と頼むのは、戦いの仕掛けや虚構ではなく、事を成さんとするわれわれ自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われわれは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモーン人(スパルタ人のこと―筆者注)はわが国土を攻めるとき、決して単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれわれは他国を攻めるのに、アテーナイ人だけの力で難なく敵地に入り、己が家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、立派にかれらを屈服させることができる。しかしいまだかつて何人もわれわれの総力を相手に戦場で遭遇したためしはない。われらは余力をさいて海軍の操連をおこない、陸上部隊を諸地に派兵しているからだ。たまたま敵勢がわが軍の一小部分と遭遇しこれに勝とうものなら、全アテーナイ勢を破ったかのごとくに豪語し、敗れればまた全軍に打敗られたかの如くにいう。ともあれ、過酷な訓練ではなく自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危機をも肯ずるとすればはや、此処にわれらの利点がある。なぜなら、最後の苦悶に堪えるために幼少より苦悶に慣れ親しむ必要がない。また死地に陥るとも、つねに克己の苦悩を負うてきた敵勢に対していささかのひるみさえも見せぬ。これに思いをいたすとき、人はわがポリスに驚嘆の念を禁じえないだろう。だがわれらの誇りはこれにとどまるものものではない。
 

   4      10