丸屋 武士(選)
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ポーツマス講和会議
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)
 「物やわらかに話し、大きな棍棒を持って行け、そうすれば遠くまで行ける」という西アフリカの格言を常々口にしていたのが、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトであった。その「棍棒外交」の主唱者ルーズベルトが1906(明治39)年、アメリカ人としては史上初のノーベル賞(平和賞)を授与されたのは、誠に至当、さすがはノルウェー国会であったと言うべきか。1901(明治34)年創設されたノーベル物理学賞、化学賞の選考はスウェーデン科学アカデミーが担当し、平和賞の選考はノルウェー国会が行う。現在も平和賞を除く5部門の授賞式は、ストックホルム(スウェーデン)市庁舎で、平和賞の授賞式は、オスロ(ノルウェー)で開催される。ルーズベルトは日露戦争講和条約調印に至るまでの仲介、調停の労によってノーベル平和賞を受賞したのである。
 これに先立つ2年前の1904(明治37)年2月4日、日本国政府は緊急御前会議において遂に対露開戦の方針を確定した。2月6日にはロシア政府に対して国交断絶を通告し、翌々8日、日本陸軍先遣隊は仁川(朝鮮)に上陸、海軍は、仁川沖のロシア艦隊を攻撃すると同時に旅順港を奇襲した。その上で2月10日ロシアに対して「宣戦布告」がなされ、翌11日には宮中に「大本営」が設置された。以降およそ16ヶ月に亘る遼陽、沙河、旅順、奉天等満州の野における日露陸軍の激戦あるいは日本海海戦等、日露戦争の経緯については司馬遼太郎氏の名作『坂の上の雲』にも詳しい。戦局も詰まってきた1905(明治38)年3月1日、日露陸軍最大の決戦とでもいうべき奉天大会戦が始まり、3月10日になってロシア軍は12万の死傷者と4万の捕虜を残して退却した。方や日本軍は勝つには勝ったがその戦争能力は限界に達していて、逃げるロシア軍を追撃し、殲滅することができなかった。3月13日、大山巌満州軍総司令官は、山縣有朋参謀総長に打電して奉天会戦の勝利を報告すると同時に、「今後ノ作戦ノ要ハ、政略ト戦略ノ一致ニアリ」と伝えた。政略とは、外交的努力による戦争の終結を意味する。これに対して山縣は、3月15日、「政戦両略ヲ一致サセルコトニハ常ニ注意シテイル。今後一層ソノ必要ヲ認メルコトハ貴見ニ同ジデアル。思フニ政府ハ善謀熟慮機会ヲ促ウルタメニ違算ナイダラウ」と返電した。
 ロシアはしかしながら、この奉天大会戦の惨敗にも屈することなく、あのナポレオンの侵略をも跳ね返したプライドはチャイコフスキーの序曲「1812年」(1880年作曲)を彷彿とさせるものがあり、当時「世界最大の武国」と称されていた軍事力は依然として保持されていた。奉天敗残の兵を後方に移動させ、代って砲2260門、騎兵222中隊、歩兵687大隊という実に日本軍の3倍の戦力を有する新鋭のロシア陸軍ヨーロッパ軍団が新たな攻撃命令を待っていたのである。これに対して日本軍は緊急勅令によって後備の兵役年限を5年延長し、徴兵基準となる兵士の身長を4尺9寸(142センチ)にまで下げてみたが、兵力補充は全く進まなかった。要するに日本軍はもはや「矢玉が尽きた」状態に陥っていた。まさに日本政府当局者にとっては薄氷を踏む思いの2ヶ月余、世界中が固唾をのんで見守る中、5月27日の日本海海戦において、バルチック艦隊が全滅した。ここに至ってはさすがに極東の小国を見下していたロシアのプライドにも揺らぎが生じた。既にこの年1月22日には血の日曜日事件(第1次ロシア革命)が勃発し、新たな内憂をも抱えるロシアであった。


 間髪を入れず、山縣が大山に対する電文で伝えたとおり、「善謀熟慮」した日本政府は「機会を捉えるに違算なく」、5月31日小村寿太郎外相の訓令によって駐米公使(大使は設けられていない)高平小五郎がアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに面会した。そこで高平は日露講和の「斡旋を希望する日本政府の意向」を正式に伝えたのである。日本の意を汲んで探りを入れたルーズベルトに対し、ロシアは講和会議の開催には同意するがロシアから日本に対して講和会議開催を提案することは出来ないという態度であった。そこでルーズベルトは自らが講和勧告者となって日露両国政府に対する「同文の講和勧告書」を作成、6月9日の「同じ時刻に」東京とペテルスブルグでグリスカム駐日公使とマイヤー駐露大使が日露両国の外務大臣それぞれにルーズベルトからの通牒を手交した。日本は6月10日同意、ロシアは6月12日になって同意した。次にその講和会議の開催場所を巡り、フランスのパリ、清国(中国)の芝罘(チーフー)、オランダのハーグ等、日露両国の思惑は錯綜した。後に詳しく説明したいが、開戦と同時に密命を帯びて渡米し既に1年3ヶ月の間にルーズベルトと12回の会談を重ねていた金子堅太郎は、6月14日ホワイトハウスから電信で呼び出しを受け、午後2時半ルーズベルトとの13回目となる会談に参上した。1905(明治38)年6月14日のこの会談における金子堅太郎のまさに乾坤一擲の説得によって、迷っていたルーズベルトは決断し、会議場所はアメリカ合衆国の主都ワシントンに決定した。ワシントンの炎暑、会議内容の機密保持、両国講和委員の護衛等が勘案され、8月10日ニューハンプシャー州ポーツマス軍港において日露講和会議は開始されるに至った。海軍造船所の新築されたばかりの建物の3階の一室でフランス語と英語を用いて会議は行われ、9月5日に日露講和条約は調印に漕ぎつけた。10月15日、日本政府が同条約批准をロシア政府に通告して戦争は終結した。
 
 

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