丸屋 武士(選)
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奉天大会戦勝利を祝う金子堅太郎あて電文に
ルーズベルトは「バンザイ!」と記す
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)
 理由もなく(?)カルタゴを滅ぼしてしまったローマ帝国の例を挙げるまでもなく、21世紀の今日においても国際社会の現実は「打算と不条理の横行」と総括することができようか。ルーズベルトは社会不安に揺らぐ帝政ロシアが全面的に崩壊してしまうことを最も怖れていた。そうなればヨーロッパの勢力均衡は根底から崩れてアメリカ合衆国に対する影響も測り知れないからである。同時に、ハワイを併合し、フィリピンを領有するアメリカにとって、日本が過大な力をつけ中国に対するアメリカの権益を侵すようなことは最も望まないことであった。他方、何世紀も世界の中心であったヨーロッパの形勢はと言えば、ドイツは普仏戦争(1870年)に勝って以来「フランスの復讐」を常に恐れて、三帝同盟その他フランス孤立化政策を専ら推進してロシアに肩入れして来た。1887(明治20)年にはロシア公債の約60%を保有する最大の対露債権国となったドイツではあったが、同時にドイツ金融市場ではロシアの債務弁済能力を疑う声が出る情勢となった。そうこうするうちにドイツの「穀物と鉄」のための身勝手な保護関税をめぐる経済的対立を中心に独露は政治的(地政学的)にも全面的に対決状況に陥り、両国の関係は開戦の瀬戸際にまで悪化した。それを見ていたフランスは1887(明治20)年、パリでフランスの銀行にロシア債を発行させる用意があることをロシア政府に伝えた。慢性的財政赤字に喘ぐロシアに手を差しのべたフランスは露仏同盟を締結、結果としてドイツは戦争となれば露仏両国から挟み撃ちにあう危険を招いてしまったのである。片やフランス国民はフランスを孤立から脱出させてくれた同盟国ロシアを国防の保障となってくれる国として歓迎し、喜んでロシア債を購入した。だが、日露開戦の9年も前の1895(明治28)年にはフランスの新聞各紙が「ロシア債の過剰」とロシアの信用を問題として、政府にロシア債への門戸閉鎖を求めるキャンペーンを張る事態に至った。それほどロシアの対フランス債務は脹れあがってしまったのである。ドイツとは疎遠、険悪な関係に陥りつつも、フランスと手を組むことでヨーロッパでの「危険な孤立」を回避したロシアは、その莫大な対外債務もものかは、シベリア鉄道を媒介とする極東への帝国主義的進出の野望を決して諦めようとはしなかった。
 一方、1805年のトラファルガー海戦でフランス艦隊を撃滅して以来、ビクトリア女王がインド皇帝をも名乗り、七つの海を支配する世界帝国として「光栄ある孤立」を保って来た大英帝国も、この露骨かつ強力な世界最大の武国ロシアの南下政策に単独では持ち堪えられなくなった。1902(明治35)年1月30日、「光栄ある孤立」を捨てたイギリスは「日英同盟」を締結し、その日英同盟を祝って日本では連日のように朝野をあげての祝賀会が催された。当時のロンドン留学中の夏目漱石は岳父にあてた手紙の中で「此同盟事件の後、本国にては非常に騒ぎ候よし、かくの如き事に騒ぐ候は、恰(あたか)も貧人が富家と縁組を取り結びたる嬉しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけまわる様なるものにも候はん」と言った。その生涯で最も不愉快な時間を過ごしたロンドンで、ついにはノイローゼに罹って発狂の噂が日本国内に流れた文部省派遣留学生夏目漱石は、国際社会において日本が置かれている立場を冷徹に観察していた一人といえよう。
 古今東西、金(経済力)と力(軍事力)とをめぐる関係は変転常なく、複雑怪奇、魑魅魍魎、卓話室Uのオランダ話(シリーズ10〜15)でお話したように「きのうの友は今日の敵」となるのが常態と認識すべきであろうか。トンビに油揚げをさらわれるという図式通りの「三国干渉」という煮え湯を飲まされて以来、日本政府は必死になって、「同時に二国以上の欧州列強を敵に回さぬ外交政策」を模索し続けた。ところが日露戦争に勝ち、労せずして第1次世界大戦の戦勝国になったあたりから、日本国民が「夜郎自大」に陥ってしまった。先人達の屈辱や苦悩、「身の震えるような緊張」、「身を焦がす不安」を忘れ、驕慢の風が吹くにまかせた。「半文明国の悲哀」、「遣る瀬無き悲憤」に対する反動がそうした風潮を招いたのであろうか。「夜郎自大」の行きつく先は、「孤立化」と「危機感の欠如」である。国家を含めて会社その他いかなる組織も「危機感」無くしては崩壊すること自明である。現実を直視して対応するという態度がそこには無いからである。
 日露講和会議の開始から条約調印に至る両国全権団の虚々実々の駆け引きは吉村昭氏の名作『ポーツマスの旗』に詳しい。この小論ではそこには立ち入らず、この講和会議を冷徹に仲介、調停して新興大国アメリカ合衆国の国家としての威信のみならず、大統領個人としても大いに威信を高めたセオドア・ルーズベルトと日本との関わりに絞ってお話をしたい。それは日本国外務省対アメリカ合衆国国務省あるいは首相官邸対大統領官邸といった公式のルートを通じて出来上がった関係ではなく、全く非公式、それ故にこそ強力無比とも言える極めて個人的な関係であった。
 既にこの時代のアメリカ合衆国は南北戦争の傷も癒えて急速に工業化、都市化が進み工業生産高はイギリスを抜いて世界の首位に立っていた。ハワイを併合し、米西戦争の勝利によってフィリピンをも領有、間もなくその大西洋艦隊は世界一周の航海に出られる能力と勇姿を整えつつあった。ルーズベルトがそのような勃興期の合衆国大統領として極東の勢力均衡を図るという地政学上の計算の中で、キリスト教国(文明国?)ロシアよりは極東(絶東)の小国日本に心を寄せていたのには、深く、大きな理由があった。ルーズベルトが日本贔屓となった主たる要因として次の五つの要因を指摘したい。
  1. 葛飾北斎らに代表される日本の美術工芸に精通するばかりでなく、キリスト教徒でありながら園城寺(三井寺)の律院、法明院の阿闍梨桜井敬徳師に帰依したビゲロー、フェノロサ両人との交際。とりわけ互いにファーストネームで呼び合った富豪ビゲローとの終生に亘る深い交友関係。
  2. 講道館柔道。(柔術ではない)
  3. 在学中に顔を合わせたことはないが、ハーバード大学同窓生としての金子堅太郎との文通を主とした15年に渉る交際。
  4. 金子が推薦した新渡戸稲造の名著『Bushido:The Soul of Japan』とイギリス人イーストレイキの『Heroic Japan』の2冊の書物。『武士道』はノイローゼに罹り札幌農学校(後の北海道帝国大学)教授を退官した新渡戸稲造が病気療養のために妻メアリー・エルキントンの母国アメリカに滞在中英文で書かれ、日本では矢内原忠雄(後に東大総長)の翻訳によって岩波書店から出版された。
  5. 15年前に憲法を発布し、帝国議会を設置して、一応立憲制の形を整えた日本が、Liberty(自由)、Individualism(個人主義)という立憲主義の二つの根幹をも確立し、文明国として行動するようになる、というルーズベルトの抱いた期待。ルーズベルトの期待の根拠は新政府が明治4年徴兵制を敷くことによって封建制度を叩き壊すという歴史的英断をもって近代的軍制を確立したスピードにあった。その内容を記述した書物が上記イーストレイキの『Heroic Japan』である。
以上5つの項目について次回に亘ってお話をしながら、近代国家にとって国力とは何かということについて改めて考えてみたい。

東京大学医学部教授として来日したビゲロー
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)
 

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