丸屋 武士(選)
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 5頁で述べたように1904年2月4日の御前会議において対露開戦の方針は確定した。その日の夕刻、貴族院議員金子堅太郎男爵は枢密院議長伊藤博文侯爵の霊南坂の官邸へ電話で至急の呼出しを受けた。長年に亘って関係の深い両者ではあったが、開戦と決し日本国政府が最も緊迫しているこの時、伊藤は金子にアメリカ訪問を要請したのであった。伊藤が指示するアメリカ訪問の目的は@アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトと親交を深めること、Aアメリカ世論の対日友好親善化を図ること、の2つであった。その際伊藤は次のように述べたという。「この日露の戦争が1年続くか2年続くか又3年続くか知らぬが、もし勝敗が決しなければ両国の中へ入って調停する国がなければならぬ。それがイギリスは我が同盟国だから口は出せぬ。フランスはロシアの同盟国だから又しかりで、ドイツは日本に対して甚だ宜しくない態度をとっている。今度の戦争はドイツ皇帝が多少唆した形跡がある。よってドイツは調停の地位には立てない。ただ頼む所はアメリカ合衆国一つだけである。公平な立場において日露の間に介在して、平和克復を勧告するのは北米合衆国の大統領の外にない。君が大統領のルーズベルト氏と予て懇意のことは吾輩も知っているから、君直ちに往って大統領に会ってその事を通じて、アメリカの国民にも日本に同情を寄せるように一つ尽力して貰えまいか。これが君にアメリカに往ってもらう主たる目的である」。
 これに対して金子はすぐには首を縦に振らなかった。後述するように金子は太政官制から内閣制に移行した時の初代内閣総理大臣としての伊藤の秘書官でもあり、伊藤が最も信頼する腹心の一人であった。だが8年に及ぶアメリカ留学体験と、ハーバード大学を通じての数多くの有力者を友人とする金子はアメリカ社会を深く洞察し、それ故にこそ上記二点の目的達成は到底不可能と考えたのである。金子の脳裏には次のような事項があった。
  1. 1775年のアメリカ独立戦争、1812年の米英戦争(この時イギリス軍によって焼き払われ、その後再建された大統領官邸には新しく白いペンキが塗られ、それ以来ホワイトハウスの呼称が使われるようになった)、1861年の南北戦争、いずれの場合もロシアは常にアメリカ(北部)を支援し、そのことに対してアメリカ人は深い恩義を感じている。
  2. ワシントン駐在ロシア大使カシニー伯爵はかって北京駐在ロシア公使として日清戦争後の三国干渉(遼東還付)の工作に成功した。日本国中が悲憤にかられ涙ながらに諦めたその旅順、大連の租借条約を清国政府と新たに締結するという大手柄を引っさげて、今やワシントン駐在各国外交団の首班であった。しかもその令嬢はワシントン社交界の花と謳われている。
  3. アメリカの大会社はロシア政府と密接な関係を保持して官用品を独占的に供給するばかりでなく、ロシアは小麦粉や缶詰類等アメリカ商品の大市場であり、アメリカ資本の格好の投資先でもある。
  4. アメリカの富豪(成金)はこの頃ロシア貴族と結婚する者が多く、アメリカ上流社会は姻戚関係を通じてロシアと親密である。
  5. 日本とアメリカの関係は単に日本から生糸や羽二重織が輸出されているだけの極めて希薄なものである。
これでは金子でなくても逃げ出すのが当然であった。
 ところが翌々2月6日朝、再び電話で呼び出した金子に対して伊藤は、「君は成功、不成功の懸念のために往かないのか。−−−(中略)−−−今度の戦争については一人として成功すると思う者はない。陸軍でも海軍でも大蔵でも、今度の戦に日本が確実に勝つという見込みを立てている者は、一人としてありはしない。−−−事ここに至れば、国を賭して戦うの一途あるのみ。成功、不成功など眼中にない。−−−眼中にないから、君も一つ成功、不成功は措いて問わず、ただ君があらん限りの力を尽して米国人が同情を寄せるようにやってくれ。それでもしアメリカ人が同情せず、又いざという時に大統領ルーズベルト氏も調停してくれなければ、それはもとより誰が往っても出来ない。かく博文は決意したから、君も是非奮発して米国に往ってくれよ。」こう言われては金子も断ることは出来ず、文字通り重大使命を帯びてのアメリカ渡航を決意し、1904(明治37)年2月24日横浜からアメリカ船サイベリア(シベリア)号で随行員阪井徳太郎、鈴木純一郎と共に出発した。

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