丸屋 武士(選)
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金子堅太郎
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)

 1904(明治37)年3月11日、2週間の航海を無事終えて金子と随行員二人はサンフランシスコに上陸した。2月10日に日本がロシアに宣戦布告した翌11日、アメリカ合衆国政府は逸早く「局外中立」を宣言していたが、さらに金子のアメリカ到着の前日3月10日には「アメリカ合衆国大統領行政命令」が発布されていた。その命令には、密命を帯びて渡米した金子の頭に冷水を浴びせるかのように次のように記されていた。
 「合衆国政府の文武官は、日露両国交戦中においては、局外中立に関する大統領宣言を遵守すべきは勿論、いやしくも両交戦国のいらだちを招くようなことは、言葉の上でも行為においても共に抑制しなければならない。
中略
礼節・中正・自制こそは、個人の交際においても国家間の交際においても常に留意すべきことである。外国や友好国、敢えていえば我々と友好関係にある全人類(all mankind)に対して、我が政府の文武官僚たる者は全て、その言葉や行為によって相手を立腹させるようなことが決してないよう要求する。」
セオドア・ルーズベルト
1904年3月10日
(『日本外交文書』日露戦争I(第648号文書1)参照)
ロシアも日本もアメリカ合衆国にとっては友好国のはずであり、アメリカは表面的にはあくまで「厳正中立」を守っていたのであった。
 サンフランシスコから鉄道を利用してシカゴ、ニューヨークへとアメリカ国内情勢を見極めながら金子は、2週間を費やした。シカゴにおいては、世界最古のハーバード倶楽部(1857年創立のハーバード大学同窓会)やノースウェスタン大学でスピーチを行い、ニューヨークでは日本人会の集りにも出席するかたわら多くのジャーナリスト(新聞記者)との会見にも応じた。アメリカ上陸以来何度も質問された金子の訪米目的についてはあくまで、この時開催されていたセントルイス万国博覧会に盛大に出展した日本の展示場を視察し(ロシアは国内混乱が原因で出展せず、ヨーロッパの国々も準備が遅れていた)、併せて工業化、都市化が急速に進むアメリカ諸都市の商工業事情を具に視察することである、と言い通した。しかしながらアメリカのジャーナリストは金子訪米の真の目的を察知していたようであり、中には金子の行動をアメリカ独立戦争の時にフランスに渡って活躍したベンジャミン・フランクリンの行動になぞられる新聞もあった。
 いよいよその時が来て、1904年3月26日午前、金子はムーデ海軍長官とヘイ国務長官に対して訪米の表敬訪問を行い、正午には打ち合わせ通り鈴木、阪井の両随行員を率い高平小五郎公使に伴われてホワイトハウスに入った。多くの面会人が控え室で待つ中で金子が係りに名刺を渡して来意を告げるとルーズベルト自ら廊下に出て来て、先客を差し置き金子の左腕を引っ張るようにして大統領執務室に招じ入れたという。この時両者は 実に15年ぶりの運命的な再会をしたのであった。
 この運命的再会の時から遡ること22年余、1871(明治4)年11月12日、安政五カ国条約の改正期限(明治5年5月26日)を間近にひかえて、不平等条約改正の予備交渉と、欧米先進国の視察および調査を目的とする遣外使節団が横浜を出港しアメリカへ向かった。右大臣岩倉具視を全権大使として、参議木戸孝充、大蔵卿大久保利通、工務大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使とする一行48名は、アメリカを経由し、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、イタリアなどを歴訪し、1874(明治6)年9月に帰国した。日本国政府首脳の半分が2年間も国を留守にするという正に開闢以来の壮挙ではあったが、主たる目的であった治外法権の撤廃、関税自主権の回復、外国軍隊の上陸禁止など半文明国(野蛮国?)日本の要求は全く相手にされず、不平等条約による日本国内の半植民地的、屈辱的状況は日清戦争に勝利するまでその後20年余りも変わらなかった。一例として明治8年頃、横浜には外国(イギリス)の軍隊が駐留していた。野蛮な日本人から居留民(西洋人)を護るという名目である。日本が野蛮国の域から脱したから外国人には自由に日本国内を旅行することを許すべきだと主張する西周に対して明治7年福沢諭吉が反対論を展開したことは卓話室IIのオランダ話(シリーズ11の3頁)でも紹介した。東京市中では飲食の後、勘定を払う段になってピストルを発射し、今度来た時払うと言って店を出るような野蛮な行為に走る外国人(英米人)が出没し、そういう外人には大したお尖めはなかった。
 ところで、卓話室IIのオランダ話(シリーズ15の9頁)でも触れたこの「岩倉使節団」には59名の留学生が同行していた。津田塾大学を創立した津田梅子(当時8歳)、大久保利通の次男牧野伸顕(当時11歳−−後に内大臣、吉田茂の岳父となる)らと共に旧福岡藩主黒田長知の随員として藩校修猷館の俊秀金子堅太郎(当時18歳)が同じく修猷館の俊英団琢磨と共に加えられていた。金子は最初の訪問国アメリカ合衆国に到着すると、そのまま留学生としてニューイングランドの地に留まることになった。まず18歳でありながら敢えて小学校に入学して英語力の基礎を固め、次いでボストン英語高等学校を卒業した後グレイ・アンド・スウィフト法律事務所に入って法律を勉強した。こうした下準備をした上で1876(明治9)年ハーバード大学法科大学院(Harvard Law School)に入学、2年後に卒業した。8年近いアメリカ留学生活の全ての費用は旧福岡藩の先代(第11代)藩主黒田長溥が負担してくれたという。一方の団琢磨はマサチューセッツ工科大学(MIT)鉱山学科を卒業し、帰国後東京帝国大学助教授から三井鉱山に転身、後年三井財閥の大番頭と称されるようになった。金子は明治11年(25歳)に帰国して東京大学予備門の講師となり、翌々1880年には元老院権少書記官に任ぜられて憲法調査の仕事に携わった。その後内閣制の施行に伴う第1次伊藤博文内閣の総理大臣秘書官に任命され、伊藤が1888(明治21)年に枢密院議長に転ずると共に、その秘書官に転任した。翌1889年、帝国議会開設のために先進諸国における議会制度の実地調査をするため、金子は欧米出張を命ぜられた。その金子の外遊目的が新聞に掲載されたこともあって、出発を目前にした金子をハーバード大学の同窓生である美術蒐集家のビゲローが訪ねて来たという。金子自身の未公刊の『自叙伝』から労作『日露戦争と金子堅太郎−広報外交の研究』の著者松村正義氏が紹介する1889(明治22)年6月11日にかんする記述を引用する。
 11日、米人ビゲロー博士来訪す。彼はボストンの人にして、日本の美術と仏教とを研究せんが為に、数年間、東京に滞留しゐたりしが、彼は余とはハーバード大学の同窓たる関係を似て、常に交際し居たりしなり。彼は、その来意を告げて曰く、「貴下は、米国人に数多の友人あれば、紹介の必要はなけれども紹介したき人あり、若し面識がなければご紹介すべし。その人は、チョードル・ルーズヴェルトといふ。今は世間に知らざれども、我々仲間に於いては、ハーヴァード大学在学中より、彼は将来、必ず大統領となる人なり、との定評あり。故に、この機会に於いて御見知り置かれなば、後日、何等かの役に立つべし」といふ、然るに余は、未だルーズベルトとは面識なかりしかば、その旨を答えたり。依ってビゲローは、持参せし一面の紹介状を渡し辞去したり。
  金子は7月21日横浜を出港して、まずイギリスに赴き、その後アメリカに渡り1889年秋、初めてヤオドア・ルーズベルトをワシントンの宿舎に訪ねたのである。当然ビゲローの紹介状を手にしてのことであろう。この時ルーズベルトは31歳であった。


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