丸屋 武士(選)
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日本の講和全権団と金子堅太郎
(前列中央、向って左側が小村寿太郎全権大使(外相)、
右側が金子堅太郎)
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)
 前頁で述べたように、これによってセオドア・ルーズベルトがノーベル平和賞を授与されたのは極めて至当、ルーズベルトの機略なくしては到底成立し得ない講和条約であった。まずロシアは満州の野で世界中の誰もが予想もしなかった連戦連敗、日本海海戦でもバルチック艦隊は全滅したが、ロシアの領土は1メートルも侵されてはいない。朝鮮や満州はロシアの領土外であり、かってナポレオンを撃退したヨーロッパ最大の武国ロシアの駐米大使カシニー伯爵は、アメリカ合衆国国務省に出掛けて行き、ヘイ国務長官を怒鳴りつけるプライドと自信を有していた。対する日本は日清戦争に勝って初めて新前として国際社会に顔出しをしたが、その折角の戦果も三国干渉(遼東還付)によって忽ち取り上げられてしまった極東(絶東)の小国である。現に日米は公使を常駐させてはいるが大使は置いていない関係でもあった。ルーズベルトは自ら仲介したポーツマスにおける講和談判が破裂した場合には、その責任の全てをロシアに負わせる肚を固めながらもドイツ皇帝ウィルヘルムU世(黄禍論の主唱者)を挺子(てこ)に使ってロシア皇帝ニコライを動かす手腕を持ち合わせていた。ウィルヘルムU世とルーズベルトとの間には深い信頼関係が築かれていたからである。ビスマルクが去って以降英仏露にもこれといった大物政治家が存在していないこの時代にあっては、ルーズベルトとウィルヘルムU世が世界の政治家の双璧をなしていた。ウィルヘルムU世には世界最強と称されるドイツ(プロシャ)陸軍はあったが、その知力、機略においてルーズベルトは数段上の人物であった。ルーズベルトはロシア皇帝に合衆国大統領としてのメッセージを伝える場合にも、専制的で尊大な性格のカシニー駐米大使がルーズベルトの言葉を改竄(かいざん)することを慮り、ハーバードの学友でもあったロシア駐在アメリカ大使マイヤーを通じて自らの意向を伝えさせるという周到な配慮の持ち主でもあった。アメリカ人としては初めてのノーベル賞であったが、そのノーベル平和賞は極めて価値の高い平和賞と言えよう。実際、国際世論の動向によっては、ことに黄禍論の盛り上がりようによっては、日本が列強によって日清戦争後の三国干渉に続いて再び足蹴にされる(欧州各国による日本に対する十字軍的行動)可能性は十分あり、それを防ぐ大きな盾となり「日本国最良の友人」となってくれたのがルーズベルトであった。

駐米ロシア大使カシニ伯爵
ヘイ国務長官を怒鳴りつけ、日本人を猿呼ばわりする傲慢さがアメリカ人にも不評で、ロシア政府も堪りかねて更迭、ローゼン男爵(前駐日公使)が新駐米大使として着任。
(松村正義著『日露戦争と金子堅太郎』
(昭和55年新有堂刊)より)
 既にアメリカ西部カリフォルニアでは日本人移民排斥問題が長い間くすぶってはいたが、日露戦争の勃発によって日本に対する同情が集まった結果、排日運動の激化は一応さけられてはいた。ところがこの戦争を熊と羊の闘いのように受けとめていたアメリカ人は、満州の野における日本軍の連戦連勝を見て日本人に対する同情を冷却させ、かえって日本人に対する不安、反感を持つに至った。1905(明治38)年5月7日(日本海海戦の20日前)、サンフランシスコ市長が急先鋒となり、各種労働組合が参加して日韓人排斥連盟設立のための市民大会がサンフランシスコで行われ、黄色人種排斥の演説は万雷の拍手を浴びたという。翌1906年10月、サンフランシスコ市教育委員会は日本人学童に白人子弟との同席を禁じ支那街(チャイナタウン)の東洋人学校に通学するよう命令した。日本の世論は沸騰し、ルーズベルトはカリフォルニア出身のメトカフ商務労働長官をサンフランシスコに派遣して市当局と交渉させたが問題は全く解決しなかった。1906(明治39)年12月4日、大統領は合衆国議会に教書を送り、サンフランシスコ市当局のような態度はアメリカ合衆国の国家としての品位を貶め、日米戦争をもたらす危険があることを指摘した。さらに12月8日にはカリフォルニアにおける日本人の安全を守るために、必要ならば軍隊の出動を命ずる決意を表明し、新聞で伝えられるルーズベルトのこれらの言動に対して日本国民は少なからず感動した。だが、カリフォルニアの人々は激昂して、『サンフランシスコ・クロニクル』紙は「我々の怒りはいまや日本人に対してよりも非愛国的大統領に向けられている。彼は外国人と手を結んで自国の文明を破壊しようとしている」と反撃した。事態は連邦政府と州政府の権限をめぐる争いに進展し、西部沿岸では日米開戦説さえ出てくる騒ぎとなった。日露戦争の際は『ニューヨーク・ワールド』紙の従軍記者として来日したことがあるアメリカの作家ジャック・ロンドン(『荒野の呼び声』『白い牙』などの著者)がオークランドの社会党大会で演説した折、その日本人排斥の言葉があまりに激しいので司会者が注意したところ、ロンドンは机をたたいて「バカを言うな。社会主義者である前におれは白人だ」と息巻いたという。日露講和条約が批准されて間もない1905年10月27日、ルーズベルトは息子のカーミットにあてた手紙で「私は日本人問題のために今恐ろしく困っている。カリフォルニアの、そして特にサンフランシスコの悪魔のようなバカ者どもが、向こう見ずに日本人を侮辱しているのだが、もし戦争にでもなれば尻ぬぐいするのは国全体なのだ」と書いたという。こういう時代背景の中でルーズベルトは日本国政府の意を汲み取り日露戦争終結のために働いてくれたのである。

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