丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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ケンブリッジ大学クライスト・カレッジの紋章
(1985/11 撮影)
 マーガレット・ボーフォートが国王ヘンリー7世の母として在世中(1505年)創立された。『失楽園』の著者ジョン・ミルトンは1625年ここに入学、1632年修士号を修得した。時代は下って『種の起源』の著者チャールズ・ダーウィンは1827年ここに入学、1831年ビーグル号に自然科学者として乗船、南米及び南太平洋の調査に向かった。
 ユリアナはその信仰(ルター派?)が極めて篤く、敬虔をもって知られた人物であった。この母にしてこの子ありと言うべきか、ウィリアム1世の行動は「人類愛」に基づくものであり、独立戦争の始めから、狂信的カソリック教徒ジェラールに暗殺されるまで、ウィリアムは宗教的非寛容には反対の態度を貫き通した。この時代にそのような態度を貫ける指導者は希有の存在である。今日に至るまでオランダの人々の心を捉えてはなさない雄大凛然たるその生き様の根幹にはこの「人類愛」があった。余談になるが、暗殺者ジェラール(暗殺のその場で殺された?)の遺族に対してフェリペ2世は約束通り貴族の称号と領地とを与えている。シリーズ12で説明したようにウィリアム1世はそのスペイン国王フェリペ2世にホラント、ゼーラント、ユトレヒトの総督として仕える前途洋々の輝かしい青年貴族であった。フェリペの使者としてフランス宮廷に出向していたウィリアムは、ある時フランス国王アンリ2世と狩りに出かけたヴァンセンヌの森で二人だけになる機会があった。そこでアンリ2世が不用意に洩らした言葉がウィリアムの一生を変えることになる。フランス、スペイン両国王がそれぞれの国内においてプロテスタント(異端)を皆殺しにする計画のあることを聞かされたウィリアムは内心驚愕した。アンリ2世はフェリペ2世に信頼されているウィリアムは当然知っているものと思って話を洩らした。だが、ウィリムは恐怖、戸惑いを一切表情に現わさず、何食わぬ顔をしてその瞬間からオランダのプロテスタントをカソリックの守護神フェリペ2世から解放する決心をしたという。ドイツはヴィースバーデン近くの緑豊か、情感豊かな館で敬虔な母ユリアナに育てられたウィリアムはフェリペらによる「人間に対する残虐行為」を座視し得ない義務感を持って立ち上がる決心をした。ウィリアム1世がウィリアム沈黙公(William the silent)と呼ばれるのは、恐怖の色も自らの決心もなに気ない顔の下に隠しおおせたこの歴史的逸話に基づいてのことである。フェリペの父でありウィリアムを寵愛したカール5世が支配する前のネーデルラント(ブルゴーニュ公国)には、フィリップ剛勇公、ジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公らが歴史に名を連らねていた。マーガレット・ボーフォートやユリアナ、比企尼やアマーリアの例はほんの一例であり、母として祖母として、あるいは乳母として、そして妻として女性が果たした歴史上の影響力は「海よりも深く、山よりも高い」とでも形容すべきか、頼朝やウィリアム3世らの背後にあった女性の力は誠に偉大なものであった。
 繰り返しになるが、専制を縦(ほしいまま)にする者に征服された国土の君主となるよりは、自由な共和国の総督であることを選んだ「貴重な決断」は、歴史上前例がないとも言えるものである。その決断の主ウィリアム3世の体内に脈々と流れていたものは、曽祖父ウィリアム沈黙公伝来の「人類愛」あるいは「ヨーロッパの心」とでも呼ぶべきものであった。人間の愛の最も純粋な流れと共に、正義を愛する気持ち、高貴な理想のためには自らをかえりみない精神の底流をなしているキリスト教文化、即ちヨーロッパの心について我々は十分な認識を持たねばなるまい。
 明治4年日本を出発、アメリカ、ヨーロッパ各国を歴訪したいわゆる「岩倉使節団」は産業革命が終わって世界の工場となり、既に「第1回万国博覧会」まで開催済みのイギリスを視察した。製鉄、造船等産業面において日本が外形的、表面的に追いつくには4、50年かかると使節団は推量したようである。イギリスを見る前にアメリカを視察した一行は、長い歴史を持っている日本に比べて、建国わずか100年という短い歳月の間にエレベーターまで使いこなしているアメリカ文明は何故そのように急速に伸展したのか、思いを巡らせたという(田中彰著『明治維新と西洋文明−岩倉使節団は何を見たか−』岩波新書2003年刊)。それはどうやら、教育と宗教とに起因するとの見当はつけたが、その後の日本の近代化は、ヨーロッパ文明の外面的模倣で終ってしまった。それが精一杯であり、それ以上は無理であったとも言えよう。何度も述べたように、明治5年福沢が著した『学問のすすめ』は出版当時ベストセラーとなったが、福沢が委曲を尽くし口を酸っぱくして説いたその内容についての学習は未だに行われず、「天は人の上に人を作らず・・・」云々の空疎単純な言葉のみが独り歩きしているのが実態である。福沢の焦燥の根っこにあった問題(封建的メンタリティーの払拭)は英傑勝海舟の言った通り、解決に500年かかる(不可能な?)問題かもしれない。
ケンブリッジ大学ジーザス カレッジ門楼の紋章
(1985/11 撮影)
作家S.T.クールリッジ、アリステア・クックはここの卒業生で
あり、現皇太子チャールズ(トゥリニティの卒業生)の弟エド
ワード王子は1983年から3年間ここで歴史を勉強した。

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