丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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アムステルダムの風景 (2004/12撮影)
 時計を少し戻して説明すると、1558年、25歳で即位したエリザベス1世は、父王ヘンリー8世以来、異母弟エドワード6世、異母姉メアリー1世(ブラッディ・メアリー)の統治を通じて深刻化したイングランドの宗教的動揺を鎮めねばならなかった。翌1559年、「信教統一令」と「国王至上法」を制定して外国勢力の支配の及ばないイギリス国教会の確立をめざした。ところがこのようなイングランドに対して外からはカソリックの守護神スペインのフェリペ2世や、後にはフランスのルイ14世を中心とするカソリック勢力からの激しい干渉が150年も続いた。一方、イングランド国内からは、特にメアリー1世の治世に迫害を受けた人々を中心に、エリザベスの押し付けるイギリス国教会を批判して、もっと「清らかな教会(ピュアー・チャーチ)」を求める声が挙がり、これらの人々がピューリタン(清教徒)と呼ばれるようになった。カルヴァンの教えに基づいて、英国国教会の枠内での改革をめざし、主教制度に代えて会衆から選出される長老制度の採用を主張する長老派と、国教会に留まるかぎりの改革は不可能であると考え、国教会から分離して独立の教会を樹立しようとする分離派(独立派)がそのピューリタンの二大勢力であった。前述のようにオランダからアメリカへ移住したのは分離派の人々である。一方、長老派の理論的支柱となったのが、ケンブリッジ大学トゥリニティ・カレッジで教えていたトーマス・カートライトであった。元々は、本シリーズ1の主人公マーガレット・ボーフォートの基金で設立されたケンブリッジ大学セント・ジョンズ カレッジで学者としての修業を積んだカートライトは1562年トゥリニティ・カレッジ神学教授に就任した。カルヴァンの思想に立脚して、当時のイギリス国教会の三本柱であるナショナリズム、国王至上主義、受動的服従主義の全てを批判したカートライトは、結局ケンブリッジ大学を追われてヨーロッパ大陸への亡命を余儀なくされた。
 そのようなピューリタンの知的要塞(理論的牙城)として1584年設立されたのが本編の主人公ウィリアム・テンプルが卒業しそこなったケンブリッジ大学エマヌエル・カレッジである。チャールズ1世の末期1646年までに新大陸アメリカのニュー・イングランドの地に移住した130名のイギリス人大学卒業者のうち30名以上がピューリタン魂に燃えるエマヌエル・カレッジ卒業生であった。その中の一人ジョン・ハーヴァードは1627年エマヌエル・カレッジに入学し、1635年修士課程をも修了した。1637年渡米したハーヴァードは翌1638年9月には、あっけなく病没してしまった。その年の夏にニュー・イングランドの地(マサチューセッツ州ニュートン)にアメリカ最古の高等教育機関として設立された小さな学校は、この地で13ヶ月間、「有資格者」として説教を行い、この学校の公の設立基金の2倍の800ポンドと400冊余りの本を寄贈したジョン・ハーヴァードに因む名称をもって今日のハーヴァード大学となった。同時にニュートンの町はケンブリッジと改名された。ボストン中心部から地下鉄で約30分のこの地を西のケンブリッジを意味する町として改名したのである。最近イギリスの新聞『タイムズ』が行った世界の大学の格付けによれば、1位ハーヴァード、2位カリフォルニア大学バークレー校、3位マサチューセッツ工科大学の順で日本の東京大学が12位にランクされている。その後のニュー・イングランド植民地の発展に伴い、17世紀にオランダからニューアムステルダム(1664年ニューヨークと改名)に渡ったオランダ人はニッカボッカー(日本で今でも建設業に従事する人々に愛用されているニッカズボンはこの言葉に由来する)と呼ばれ、その子孫で富裕な一家に生まれたのが第26代大統領セオドア・ルーズベルトである。ルーズベルトは、自分がアングロサクソン系ではないことを終生自慢していたという。彼は正規の学校による初等教育は全く受けずに、ヨーロッパ旅行や専任の家庭教師による小公子的な教育を受けた後、ハーヴァード大学で学部教育を終え、コロンビア大学のロー・スクール(法科大学院)を卒業した。彼の従兄弟である第32代大統領フランクリン・ルーズベルトも同じくハーヴァードを卒業後、コロンビアのロー・スクールを出ている。大樽のような胸をして、スポーツ、とりわけテニスと乗馬を得意とした偉丈夫セオドア・ルーズベルトはハーヴァードをきわめて優秀な成績(ファイ・ベータ・カッパ)で卒業し、その後の研鑽によって歴史学、博物学の分野では一流の学者にも遜色なく、あのルネサンス的巨人ヤン・デ・ウィットを彷彿とさせる人物であった。彼は日本の柔道に深い関心と理解を示し、ノイローゼに苦しみ札幌農学校(後の北大)を退官した新渡戸稲造が、病気療養のために妻メアリー・エルキントンと共にアメリカ滞在中に著した『Bushido:The Soul of Japan』を読んで大きな感銘を受けた。『Bushido:The Soul of Japan』を30冊買い込んだルーズベルトはそれを自らの5人の子供と知人達に分け与えたという。これらのことがあって、異教徒の国日本と戦っているキリスト教国(ギリシャ正教)ロシアに味方する声も根強い中で、ルーズベルトが敢えて日露戦争の仲裁役を買って出ることになったのである。ルーズベルトに『Bushido:The Soul of Japan』を紹介したのは東京におけるハーヴァード倶楽部(ハーヴァード大学同窓会)会長の金子堅太郎であった。金子はよく言われるルーズベルトの同級生ではなく、日露開戦の15年前仲介者によってルーズベルトの知遇を得たのであるが、その辺の事情は別の機会にお話したい。
オランダ風景 (2004/12撮影)
どこに行っても見られる運河と風車

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