丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ
ヨーロッパ最大の中庭(外周370m)
 (2004/12撮影)
 芝生と小道を囲むこの壮麗なグレート・コートで1988年、中距離界のトップランナー、セバスチャン・コーとスティーブ・クラムとの間のマッチレースが行われた。セバスチャン・コーは今年(2005年)、2012年開催予定のオリンピックをロンドンへ誘致する誘致委員会委員長として活躍した。
 ここで一旦、別の話題に転じさせていただく。臨済宗であろうと浄土宗であろうと、どうでもいいような大方の日本人の宗教感覚からは最も遠い距離にある話に触れたいと思う。こう言うと妙な感じを持たれる方が多いと思うが、アメリカ合衆国は神の国である。そこにおける公立の小学校においては、毎朝国旗を掲揚して、生徒は「神の下に」合衆国への忠誠を誓う。「我ら神を信ず(In God we trust)」という文字が硬貨に刻み込まれ、紙幣に刷り込まれたアメリカでは、国民の8割がキリスト教徒であり、しかも4割が毎週日曜日には教会に通う。先頃ローマ法皇選出のためのコンクラーベと呼ばれる芝居がかった儀式を、煙が出るため面白いせいか日本のテレビ等でも大々的にとりあげていた。しかしながら、ローマ法皇を崇拝するカソリック教徒はアメリカ合衆国では少数派であり、アイルランド系のジョン・F・ケネディはカソリックであることをもって大統領選の当選は難しいとの事前観測を出されたこともあった。
 1620年12月、メイフラワー号に乗って大西洋を渡り、マサチューセッツ州に定住した人々はピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖)と呼ばれている。アメリカ合衆国建国の父とされるこの102名の人々が実はオランダから来たイングランド人であることを知っている人は意外に少ない。ヘンリー8世がローマ法皇と縁を切り(ローマ法皇から破門され)、イギリス国教会(アングリカン・チャーチ)を作ってイングランド全土のカソリック修道院等を取り壊し、その土地を奪って以来、イギリス国教会を信じない人々は異端として弾圧、迫害を受けるようになった。ノッティンガム州の小村スクールビー近くの農民ウィリアム・ブルースターや後にマサチューセッツ総督となるウィリアム・ブラッドフォード以下40名の人々は迫害から逃れて1608年宗教的寛容の地オランダのアムステルダムへ移住した。ところが、元来農耕を営んでいたこれらの人々はアムステルダムでの都会生活に馴染めず、翌年、大学もあって落ち着いた町であるライデンへ移った。しかしながら、10年近くなったライデンでの生活は、もともとの彼らの信仰、伝統を危うくする要素が増える結果となり、第3の移住の地としてこれらの人々はアメリカという新天地を目指すことを決定した。一旦イギリスへ戻り、ロンドン商人の資金援助と国王ジェームス1世からのヴァージニア植民地への入植許可を得た。新たな参加者を加えて102名の集団となったこのグループは1620年9月16日プリマス港を出港したのである。ブラッドフォードが聖書に因んで自らを「この世の旅人」と呼んだことから、彼等は巡礼父祖(Pilglim Fathers)と呼ばれるようになった。自らの信仰を全うするため3度もの「集団移住」を重ねて初志貫徹した人々が作った国がアメリカ合衆国という国である。
ケンブリッジ風景
 (2004/12撮影)
トゥリニティ カレッジ背後のケム川と
対岸のバックスと呼ばれる緑地

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