丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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ケンブリッジ大学セント・ジョンズ カレッジ背面
 (2004/12撮影)
この中でトーマス・カートライト(本文7頁参照)は神学の研鑽を積んだ。第二次世界大戦末期、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の一部もここで練られたとか。手前は「溜め息の橋」。
 シリーズ10で言及したように、アヘン戦争(1840年)によって中国を手ひどく痛めつけたイギリスを先頭とするフランス、ロシア、アメリカの海軍力に脅威を感じた徳川幕府は「洋式軍艦」の建造とそれを運用する海軍の必要性を痛感した。1862年(文久2年)8月、第14代将軍徳川家茂以下幕閣の前で、徳川幕府自前の海軍創設に必要な年数を質問された勝海舟は、500年と答えて評定(会議?)をブチ壊しにした。勝は既に長崎海軍伝習所において榎本武揚らの先輩として20名余りのオランダ人教官から航海術(サイン、コサイン等々の勉強)を学んでいた。そしてこの評定の2年前の万延元年(1860年)には日本人としては初めて咸臨丸を操って太平洋を渡り、アメリカを肌で知ってきた勝はこの時軍艦奉行という破格の地位に抜擢されていた。長崎海軍伝習所を設立し、取るに足らない身分(徳川幕藩体制における武士として最下級の身分)の勝を軍艦奉行に就任させた幕閣にもそれなりの危機感はあった。だが、この評定に臨んだ勝は、日本国の人材を全て投入しても国家としての近代化の成否は危ういような状況に至っても、自前(幕藩体制、即ち封建制度の墨守)にこだわる徳川幕府に激しい苛立ちを感じていた。何しろ西洋では既に(1848年)カール・マルクスの『共産党宣言』も出版されていた時代に、封建制度とは、滑稽極まりない状況でもあった。そうした背景において、頑迷固陋(ころう)の幕閣に対する英傑勝麟太郎一流のハッタリもあっての500年という数字であろう。勝が操った咸臨丸には周知のように福沢諭吉も乗船していた。シリーズ11で述べたように、「民衆の心の発達こそ文明の発達である」とする福沢の持論からすると勝が持ち出した500年という数字は見当違いではないように思われる。あまり言われていない事であるが、福沢は一度だけ東京市議会(今の東京都議会の前身)議員になった。だが、そこにおける権威主義その他封建的メンタリティーの横溢に呆れ返って、以後政治家としての活動を福沢は一切していない。結局、徳川幕府は自前の海軍を諦めて、洋式軍艦の建造と海軍要員の養成をオランダに依頼することになり、翌1863年(文久3年)榎本武揚ら留学生が派遣されたわけである。
 福沢と勝との関係には微妙なものが感じられる。両者共に当時の日本最高の知性の持ち主であるが、敢えて言えば、勝は剣術と禅の修業によって鍛え上げた機略と胆力の持主であった。その勝の生き様に皮肉にも旧幕臣の「レッテルを貼って」ケチをつけたこともある福沢諭吉はその名著『文明論之概略』において次のように述べた。「英に千艘の軍艦あるは、唯軍艦のみ千艘を所持するに非ず、千の軍艦あれば万の商売船もあらん、万の商売船あれば十万人の航海者もあらん、航海者を作るには学問もなかる可からず、学者も多く商人も多く、法律も整い商売も繁昌し、人間交際の事物具足して、恰(あたか)も千艘に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦ある可きなり」。ところが日本は福沢がここに説くところとは全く反対の道筋を遮二無二突進した。必死になって勉強した日本国民(その典型は7年間もイギリスで勉強した東郷平八郎である)は、日露戦争後なんとか洋式軍艦を作れるようになり、それなりの産業基盤も整えた。この時点でようやく日本は、西洋文明の表面だけはなぞれるところまで到達した。しかしながら、福沢の言う万の商売船、十万人の航海者の背後にある文明の底流を顧慮する暇(いとま)が日本国民にはなかった。お上の高札によって3人以上の人間が集って話をすることは「徒党」という曲事(犯罪)として最も重い禁制とされていた国民に、自由(Liberty)あるいは自由民権等を説いてもピンとくる訳がないではないか。その上、前述した「既成秩序の破綻に対する恐怖」も働いたに違いあるまい。いずれにしても二百数十年の封建制度と鎖国に慣れた国民に福沢の説くところを実現させるのは無理というものであろう。
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ カレッジ
 (2004/12撮影)
1820年まではケム川が学都ケンブリッジの西の境界の様相を呈していた。これは、そのケム川を越えて増設された新校舎の立つバックスからケム川の対岸の旧校舎と礼拝堂を臨む風景。礼拝堂は高名な建築家ジョージ・ギルバート・スコットによって設計され1860年代に完成。学都ケンブリッジ北部の目印ともなっている。

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