丸屋 武士(著)
貫徹せり、オランダの世紀−国士ウィリアム・テンプル−
底深い精神文化
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ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ中庭北側門楼
 (2004/12撮影)
ケンブリッジ最古の門楼であり、旧キングス・ホール(エドワード3世が創立)の門楼として1427年から10年かけて建立された。門楼の右側は礼拝堂、左側は研究室(教授室)。
 近い将来に関東源氏の合流を見込むとはいえ、わずか10人の手勢と共に平家打倒(日本の支配体制転覆)に立ち上がった頼朝が決死の覚悟であったことは間違いない。八幡太郎義家以来の傑出した血筋(資質)と武家(源家)の頭領としての幼時からの教育が、大勢に抗することをものともせず、一人でも敢然と立つという勇気を持った真の貴族としての行動を可能にした。14歳から34歳になるまでの「流罪人」としての頼朝を支えきって、「日本初の武家政権」の誕生という偉業を成し遂げた比企尼を中心とする安達盛長や佐々木四兄弟らほんの一握りの人々の感慨はどのようなものであったか。律儀に食糧等を届けるばかりでなく、女性の身で雌伏20年の頼朝周辺に既述のような気配り、手配りをした比企尼は、チューダー王朝の開祖ヘンリー7世の母、マーガレット・ボーフォートの忍耐力と政治力を想起させる人物であった。シリーズ1で言及したように、妊娠6ヶ月で夫が病死し、14歳で未亡人となったマーガレットは幼子ヘンリーを抱えて辺境の地ウェールズの身内ペンブルック伯爵家の城に難を逃れた。その上25年間も続いたバラ戦争の有為転変の中で、成長したヘンリーは自らの命を守るためにフランスへの亡命を余儀無くされた。フランスからウェールズに逆上陸し、ボズワースの戦闘(シリーズ1参照)に勝利して28歳のヘンリーがヘンリー7世としてチューダー王朝の開祖となった時、母マーガレットやその周辺にあって二十数年の苦難の世渡りに耐えて来た人々の思いもまた如何ばかりであったか。既述のようにバラ戦争は貴族社会が自らの身に施した一種の瀉血のような現象であり、25年間の断続的戦いの中でイングランドの国土や国民に大した損傷はなかったが、ランカスター系、ヨーク系とも王権に近い血筋の者が殆どいなくなるという凄惨な闘いであった。マーガレットとヘンリー母子はその争いに終止符を打つことができたのであり、この二人を二十数年支えてきたものは、一人でも立つ勇気と苦難に耐える忍耐力のもとである篤い信仰であった。
 同じように17世紀ヨーロッパの武家の頭領とでも評すべきオレンジ家のウィリアム3世を一生涯にわたって支えたものは、「一人でも立つ勇気」と苦難に耐える原動力としての篤いプロテスタント信仰であった。前シリーズ14で言及したように、ウィリアムはイングランドから来た和平使節(講和押しつけ使節)に対して「祖国の滅亡を見ずにすむ方法が一つ残されている。それは最後の塹壕を守って死ぬことだ」と答えたとされている。その直前、侵攻して来たフランス軍を迎え撃つために出征した21歳のウィリアムは「敵がエイセル川を越えたら、自分は死んだものと思って欲しい」と言い置いて出征したという。その後の動きは前述のようにエイセル川どころかユトレヒト防衛もかなわず、後方に退いて洪水線(ウォーター・ライン)を防衛線とした更なる重圧に対して戦わざるを得ず、わずか10人の手勢と共に立ち上がった頼朝と同じく命を捨てての戦いであった。それはまた、冒頭に紹介した「武門に身を置く者は、壮士であらねばならぬ」という平清盛とも相通じる心情をもっての行動であった。
ケンブリッジ大学トゥリニティ カレッジ中庭南側門楼
創立者エドワード8世の娘エリザベス1世の像が見える。
 (2004/12撮影)

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