丸屋 武士(選)
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 「対等で自由な議論を楽しみ、時としてそれを武器に生きる」というギリシャ以来の西洋の伝統は、「明治維新」以来日本に根付くことは無かったが、今後は果してどうか。ペリー来航の年、31歳の勝海舟は前述のように「建白書」を提出し、「言路を開けること」、「闘論(討論)考究」することを幕閣に建言したが、何の効果もなかった。唯一の救いはその後、坂本龍馬の策とされる「船中八策」なるものが出て、その中の「万機宜しく公議に決すべき事」という文言が一部政治指導者の頭の中に入ったことぐらいか。「天下泰平」の通弊は、治める者と治められる者との間が隔絶して、国際社会を含めての社会の実情、実態を、治める者が十分に認識した上での政策遂行能力を持てないことにあった。


墨田区役所横に立つ「勝海舟」像
 翻って今、日本は衰退(没落)の過程にある。少子高齢化も経済のグローバル化も20年以上前からわかっていた。とこらがいまや、一人当たりGDPは経済開発協力機構(OECD)加盟国30ヶ国中18位となり、国際競争力に関しては、世界経済フォーラム(WEF)のランキングは8位であるが、スイスの国際経営開発研究所(IMD)のランキングでは24位となっている。IMDは国の財政状況を重視するせいでもあるが、その国家としての日本の財政力は主要先進国の中でダントツの最悪、国と地方を合わせた長期債務は2008年度末に778兆円と見込まれている。他の先進国(米英仏独カナダ)における債務残高の対GDP比は80%以下であるのに日本のそれは177%に達している。不名誉なことに、既に先進国のトップを切って人口減少国家に転落した日本にとって最大、最重要の問題は「労働生産性」にあるが、日本の労働生産性は、何と一位のノルウェーの5割強、アメリカの7割、ユーロ圏の8割程度であり、先進国のなかでは最下位グループに入っている。15年間続き「大手都市銀行の名前」がいくつも吹っ飛んでしまった「平成メガ不況」によって、日本の経済成長率はわずか2.2%でOECD諸国の平均2.9%を大きく下回った。近頃日本の世相には、鼠小僧次郎吉や大塩平八郎らが出現した天明、天保の世相を連想させるところさえある。それでも様々な経済ニュースの冒頭ではキマリ文句のように、「戦後最長の景気回復が続くなかで」とか、言い続けてきたのは、希望的観測と客観的事実とを混同するという、伝来の悪癖がまたぞろ出たか、あるいはかってお馴染みの「大本営発表」の悪い体質が戻ってきたのか。現実には地方都市の駅前商店街は悉く駅前シャッター街と化し、日本全体の百貨店の売り上げは11年間連続して下げているのに、である。グローバル化の一面は、月給が1万円や2万円で喜んで働く人々が製造する製品や提供するサービス(経理事務の一括請負等々)と、価格や品質を競って勝たねば、国際的にも国内的にも顧客を得ることが出来ない、ということである。如何なる企業にとってもこれが現実であり、国民全てがこの現実を認識するのは余りにもつらいことか。


千鳥ヶ淵の眺め
 ここまで来た日本国衰退を食い止めるには、近代国民国家としての国民全体の意識改革が不可欠である。なぜならば、会社であれ国家であれ、意識改革のないところに改革や進歩は起こり得ないからである。そして、その意識改革の基には危機感がなくてはならない。ところが、ワイワイ騒いでいるうちに「お上」が何とかしてくれる、エライ人が何とかしてくれるとでも思っているのか、国民の間には未だにさほどの危機感は見受けられない。問題の本質は当コーナーのシリーズ12(5頁)で述べたように、国民一人一人の文化の素質であり、それに基づく政治意識のレベルである。何となく言われているように誰でも生まれながらに主権者である、と言うような言説は偽善、欺瞞に過ぎず、民主主義や多数決のシステムは、そこに参加する人間の資質を問うことなくしては十全に機能し得ないシステムである。我々は三度、黒船による脅迫やマッカーサー元帥による占領のような「外圧」を待つしかないのか。全ては、日本の歴史上初めて国民が自発的に「近代市民社会の市民としての自覚」を持ち得るか否かにかかっている、と言えよう。それには、2400年前のアテネに於ける「国葬演説」においてペリクレスが市民に呼びかけたように、公と私の区別を弁(わきま)えた上、法律を尊重する心と侵害された者を救う掟、その上に「万人に廉恥の心を呼び覚ます不文の掟」とを備えた国民、即ち「近代市民社会の市民」になるための国民教育が無くてはならない。その国民教育の目指すところは、「依らしむべし、知らしむべからず」という類の愚劣な統治方針や、「長いものには巻かれろ」という次元の低い政治意識を排撃する政治意識を確立することである。


嘉納治五郎が通算23年4ヶ月校長を勤めた高等師範学校(後の東京教育大学)跡地の桜
 勝海舟は、頑迷固陋、因循姑息の幕閣に怒って、政権を私(わたくし)しないジョージ・ワシントンを引き合いに出し、「公(おおやけ)」の概念と「社会正義」の概念まで持ち出した。だが、「その炯々たる眼識はよく時局を大観し」、と嘉納治五郎に評された勝は、前ページまでに再三言及したように自らの20日足らずのアメリカ体験(体感)によって、日本人がそんな事をわかる様になるには何百年もかかると悟り、肚を括っていたと思う。吉田松陰もその門下であった佐久間象山は、当時の日本第一の学術者であり、勝の義弟でもあったが、傲岸不遜な性格も災いして京都市中で白昼、未開野蛮な侍に切り殺されてしまった。義弟とはいえ年長の象山とは気性も違って、象山の学識は評価してもあまり相性は良くない冷徹犀利な実戦家であった驍将勝海舟は、幕末紛擾がきわまり事態が切迫した結果、文字通り余人をもって代え難い役目を負わされる状況に立ち至った。いよいよその時が来て、「危難に際会して逃げられぬ場合と見たら、まず身命を捨ててかかる」ことを常道とした勝は、手ぐすねを引き殺気充満の敵陣に単身歩いて談判に出掛けるという離れ業を演じ、嘉納治五郎が形容した通り「機略縦横、死生の境を行くこと平地の如く」行動して、江戸市民が塗炭に墜ちるのを防いだ。乾坤一擲の時、徳川幕府陸軍総裁という最高位に就いた勝海舟最大の強みは、その生い立ちから半生を通じて、とことん下情に通じていたところにあった。社会の実態、実情を肌で熟知しての政策形成能力、政策遂行能力を十全に発揮したのである。
 今、この衰退国日本を没落、滅亡から救うためには、31歳の勝が建言したように、国民全体が「言路を開き、闘論(討論)考究」することが不可欠であり、その論争(闘論)の基軸となるべきものは、同じく勝が持ち出した「公(おおやけ、Public)」と「社会正義」という二つの概念ではないか。而してそれらの事を日本国民が平等、対等に「闘論考究」すべきとするその根拠は、祖国アテネの為に戦死した戦没者の遺族を慰め、かつ励まして、アテネ市民を鼓舞するためにペリクレスが「国葬演説」の末尾で述べた「市民たるもの、みな己れの子の生命にかかわると思えばこそ、対等と正義を政治の場において主張しうる」、というところにありましょう。
<了>

≪参考文献≫
江藤淳、勝部真長編『勝海舟全集14』                 
1970年勁草書房刊
勝部真長著『勝海舟』上巻                         
1992年PHP研究所刊
村上元三著『勝海舟』上                          
1991年徳間文庫
A・Jエイヤー著大熊昭信訳『トマス・ペイン社会思想家の生涯』  
1990年法政大学出版局刊
マーク・フィリプ著田中浩・梅田百合香訳                
『トマス・ペイン−国際派革命知識人の生涯』
2007年未来社刊
クリストファー・ヒッチンス著中山元訳                  
『トマス・ペインの『人間の権利』』     
2007年ポプラ社刊
嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』                  
1964年講道館刊
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