丸屋 武士(選)
(2008年4月)
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勝麟太郎の夜通しの修行(寒稽古)を見守った王子権現(王子神社)の大銀杏
(推定樹齢700年)とその近くにある桜
 1894(明冶27)年5月20日、講道館初の自前の道場としての下富坂道場新築落成式において、嘉納治五郎は「講道館柔道」の来歴や将来の抱負を招待した朝野の多数の人々に対して初めて組織的に説明し、展開して見せた。日清戦争の開始2ヶ月前のことである。当日の式次第を見ると嘉納の挨拶のあと講道館青年部総代として山下義韶が祝辞を述べている。この時30歳前後の山下は柔道家としては日本最高位ともいえる警視庁師範を勤める傍ら、この前年には海軍大学師範、慶応義塾師範をも引き受けたばかりであった。以後の山下の活躍、とりわけホワイトハウスやアナポリスにおける柔道の指導については当コーナーの前シリーズ(シリーズ14)で詳述した。
 明冶18年、19年の警視庁に於ける他流試合、特に楊心流の戸塚一門との3、4年に亘った対決において圧倒的な勝利を収めた講道館柔道ではあったが、「無料指導」を原則としていたこの頃までの講道館は、学習院の教師としての嘉納の給料(初任給八十円)や嘉納がアルバイトで得る翻訳料を主たる原資としていた。因みに嘉納が80円の初任給を貰った当時の小学校教師の初任給は5円、巡査のそれは6円であった。明冶15年発祥の地、下谷北稲荷町永昌寺から今川小路、上二番町、富士見町、本郷真砂町へと活動拠点を移していく間に、嘉納は財政的にも相当な苦労をした。講道館の設立目的は、ただ只管「立派な人を造る」ことにあり、何かを教えて金銭を得る、といった道とは対極にある生き方を嘉納が選んだ結果であった。そういう間借り生活の中で警視庁主催の試合を制した明治20年前後からは講道館への入門者が急速に増え、19年には98人であった入門者が20年には292人、21年には378人、22年には605人という状況となり、このあたりで本格的に活動拠点を定めてもよい頃合であった。ところが折悪しくも、嘉納が本職として全力投球していた学習院教授兼教頭の職(年俸千四百円)が宙に浮くという事態がもち上がってきたのである。学習院教頭嘉納はこの頃、新たに第四代院長に就任した三浦梧楼(既に陸軍士官学校校長を経験していた)とソリが合わず明冶22年(30歳)、ついに学習院を退職し、宮内省の身分(御用掛)はそのままで欧州視察を命じられる結末となった。太政官制から内閣制に変わって初代農商務大臣として転出していった谷干城第二代院長には、26歳の若さで嘉納は平教員から幹事に抜擢されて父を喜ばせた。西南戦争で熊本城を死守したあの谷干城から評価されたことが父親にとって嬉しかったのではないか。工部大学校(東大工学部の前身)校長、元老院議官、華族女学校校長を歴任し、谷の後任となった学習院第3代院長大鳥圭介に教頭として仕えた嘉納は、ウマが合い意気投合して多くを任されていたが、この三浦との確執によってついに学習院とは縁が切れた。

地下鉄「稲荷町」駅を出てすぐの交番裏にある下谷永昌寺に建てられた
「講道館柔道発祥之地」という石碑
 パリ、ベルリンを中心にヨーロッパを視察して明治24年1月帰朝した嘉納は宮内省から文部省参事官に転出し翌25年、熊本の第五高等中学校校長を拝命、程なくして明治26年(34歳)6月には第一高等中学校(一高)校長兼文部省参事官に異動、同年9月には文部省参事官と兼任で高等師範学校(後の東京教育大学、現筑波大学)校長に任命された。こういう慌しいなかで、本郷真砂町の道場が建物の所有者である陸軍省の都合で継続使用が難しくなり、嘉納はそれまでの間借りの道場に終止符を打って小石川区下富坂町の私有地を購入し、そこに当時としては大規模な百七畳敷きの自前の道場が落成した。
 講道館始まって以来のこの記念すべきセレモニーにおいて35歳の嘉納館長は「起倒流の形」と「講道館の形」を演武し、その卓越した技倆を披瀝した。とりわけ山下義韶と小田勝太郎を「受け」として演じた「講道館の形」は圧巻であった。最初は静かにゆっくりと技を施してその技の理合、動作を観客が理解できるような配慮をした嘉納は、続いてその技を実際の試合で用いるように電光石火の早業として披露し、観客に大きな感銘を与えたのである。嘉納のこの時の演武に感銘を受けた勝海舟はその感想として「無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を窮む」と書にして嘉納に与え、その扁額は水道橋時代の講道館大道場正面に永らく掲げられていた。勝と嘉納の関係については後ほど詳しく述べたいが、この下富坂道場落成式というセレモニーは、武芸者あるいは武道家として最も充実し日本一流の境地に到達した嘉納治五郎の存在を満天下に示す絶好の機会となった。各方面の名士が多数来場した中から、『嘉納治五郎ー私の生涯と柔道』のなかで嘉納自身が敢えて名前を挙げた三名の来賓に注目したい。まず前記勝海舟伯爵、次に品川弥二郎子爵、そして最後が渡辺昇であった。この渡辺昇の名前を挙げたところに、武道家としての嘉納治五郎の揺るぎ無い自信を感じ取ることができると思う。

嘉納が示した「講道館形」に対して
勝海舟が与えた賞辞

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