丸屋 武士(選)
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 感情的、情緒的な国家主義、国粋主義、総じて言えば「島国根性」とは全く無縁な人物として嘉納が創始した講道館柔道は、今や地球文化の一つとなって嘉納の足跡を永遠に残している。それまでも古流柔術の一部で細々と行われていた「乱取」を「勝負法」としてクローズアップさせ修練の中心に据えたことが嘉納の成功の核心であった。何年もかけて、決められた「形」を「取り」と「受け」とが反復して練習し、上達には時間(長期の修行期間)と才能が必要な古流柔術のやり方を変えて、乱取(競技化、スポーツ化)を前面に押し出したことが短期間で「生きた技を身につける」ための画期的技術革新となった。それが、講道館の創始から数年で他流を制するという大成功につながり、「日本発の世界標準の創成」となったのである。乱取を殆どやらずに何年もかけて「形」を反復練習させるという古流柔術伝来のやり方には、弟子からの指導料で生活する柔術家の生活設計という一面もあったのではないか。

明治新政府の最高指揮官とでもいうべき存在の大久保利通が馬車で出勤途中を襲撃され、斬殺された紀尾井町清水谷公園
 古来、「俗は俊異を悪み、世は奇才を忌む」(東海散士)という。高邁な見識と雄渾な気魄の持ち主であった嘉納治五郎は、前述のように恩人勝海舟を評して「その人となり俊異卓抜、その炯々たる眼識はよく時局を大観し」と述べた。「俊異」を辞書で引くと、「才知がすぐれていて普通の人と異なること、その人」とある。「卓抜」は「他のものをはるかに抜いてすぐれていること」となっている。まさに「俊異卓抜」そのものである勝海舟は俗(世間一般)には受け入れられない、むしろ憎まれる存在であり、人材払底して、いよいよ危急存亡の時に至ってようやく登用され、他の誰にも出来ないことを、「機略縦横、死生の境を行くこと平地の如く」実行して国家、国民を救った近代日本第一の英傑であると思う。
 蛇足ながら、維新三傑の一人大久保利通についての嘉納の評価を紹介すると「高く自ら任じ篤く自ら信じ、沈毅端厳、善く謀り善く断じ、時局の紛難を処理すること、快刀の乱麻を断つが如く、凛々なる英風、よく上下の信頼を得て国家の柱石となったのは、かの大久保甲東であった。」というものである。その明治政府の指揮官大久保利通は明治11年5月14日紀尾井坂で出勤途上を襲われ、切り殺されてしまった。逮捕された犯人は首切り役人山田浅右衛門によって斬首の上、獄門となった。獄門が廃止になったのは翌明治12年、斬首刑が廃止になり山田浅右衛門が失業したのは翌々明治13年のことである。こういう時代背景の中で勝海舟は明治8年、政府の第一線(初代海軍卿、参議)から引退し、赤坂氷川町の邸で官民貴賎内外を問わず多数の来客と会い、余暇には『海軍歴史』や『陸軍歴史』等、著述に心を寄せる生活を20年余り続けた。文学部第二回生(同期6名)として東京大学を卒業し、学習院に奉職した嘉納が相談に訪れたのはそういう生活の中での勝海舟であった。


隅田川左岸、墨田区墨提通りの桜。勝が弘福寺に参禅修行のため通った頃はどのような
風景であったか。
 勝は当サイト「私の心の散歩道」コーナー(2008年1月6日付等)で言及したが、幕府講武所奉行、剣術師範役、男谷精一郎信友の従兄弟であり、父勝小吉の実家である男谷邸において誕生した。現在そこは本所警察署の裏手、両国公園という小さな公園になっており、西側には墨田区立両国小学校を挟んで吉良上野介の邸跡がある。父である勝小吉の境遇は幕臣の最下級、小普請組40俵扶持というものであった。ある試算によれば、現在の月収7万円程度の境遇であり、当然、内職をしなければ成り立たない生活状況にあったが、内職に身を入れれば士風を吹かすことは叶わない。そういう境遇で懸命に生きた勝親子の周辺は子母澤寛の名作『父子鷹』に活写されている。13、4歳で男谷門下として剣術修行を始めた勝麟太郎義邦は、起倒流柔術の鈴木清兵衛の道場では島田虎之助と相弟子であった。男谷道場の内弟子となっていた島田が短期間で免許皆伝となり、独立して浅草新堀に道場を構えたのをきっかけに、勝はその島田道場の最初の内弟子として薪水の労をとって本格的に剣術に取り組んだ。その時15、6歳であった勝は18歳頃に至って、牛島の弘福時に通い禅の修行をも並行して進め、超人的な努力と天成の剣才とによって21歳の時には直心影流の免許を受け、師匠島田の代稽古を勤めるようになった。禅の修行も島田の勧めによるものであったが、勝はこの頃には開明的な島田の許しを得て蘭学の修行も始めていた。ところがその蘭学修行が世間の受け入れるところでなく、「洋夷の匂いがする」とかいわれて、勝は大名屋敷への出張稽古を断られるようになった。まさに「俗は俊異を悪み、世は奇才を忌む」という典型的事態である。200年以上続いた鎖国と封建制(門閥制)という因習に泥み、「夜郎自大」「頑迷固陋」「因循姑息」に陥っていた日本社会に勝は悪まれたのである。普通の人間ならば落ち込むところであるが、そんなことを弾き飛ばす強靭な心身を、数年に亘る島田道場での厳しく激しい修行によって勝は既に鍛え上げてあった。

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