丸屋 武士(選)
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時代に先駆けて明治8年に建設された慶應義塾「演説館」。『西洋演説規範』が明治14年に出版され、明治20年に出版された『雄弁秘術演説美辞法』では発声方法、手の作法、足の踏み方等が紹介されるという時代であった。
スピーチを「演説」、シヴィライゼイションを「文明」と翻訳したのが福沢諭吉であり、サイエンスを「科学」、フィロソフィーを「哲学」と訳したのは西周であったが、それまでこういう言葉は日本にはなかった。
福沢は始め「演舌」としたとか。
 あまり言われていない事ではあるが、福沢諭吉は東京としては始めての選挙で選ばれた府会議員であった。西南戦争が終わった翌年(明治11年)、全国の府県会の先陣を切って行われた東京府議会(東京都議会の前身)議員選挙に当選した福沢は1879(明治12)年1月開かれた第一回府議会において議員49名の中で副議長に選出された。議長は下谷区選出の東京日々新報主筆福地源一郎(桜痴)であった。ところが、慶應義塾塾長、芝区選出、旧幕臣福沢議員は多忙を理由にすぐに副議長を辞任し、明治13年1月28日には東京府会議員をも辞めてしまった。議場に横行する権威主義その他、封建的メンタリティーの横溢にあきれ返ってのことであるとか。国会(帝国議会)の開かれる10年も前の出来事であるが、福沢にとって封建制(門閥制)は「親の仇」であってみれば無理もないことであろう。福沢は以後、政治家(議員)としての活動は一切していない。蛇足ながら、東京府議会の議員は議長を含め無報酬であり、議場のコの字型の議員テーブルで13番が福沢の席であった。
 その福沢と勝海舟は共に咸臨丸に乗船してアメリカを見た。翻訳方(見習い、正式には軍艦奉行木村摂津守の従者)と船将という身分の違いはあったが、封建制(門閥制)の下で最下級の武士として呻吟してきた二人にサンフランシスコで見たアメリカ社会の実態は新鮮な驚きを与えるものであった。鉄道その他のインフラや工業水準等の遅れは確かに認識したが、蘭学を学んで来た両者にとってはさほど驚くことではなかった。二人にとって最も印象的であったのは、むしろアメリカ合衆国における人と人との関係、その行き着くところの人々の政治意識であった。福沢はその後、竹内下野守が率いる文久遣欧使節団の一員(翻訳方)としてヨーロッパ6カ国を訪問したが、イギリスで福沢は「議会(Parliament)」と言う言葉をなかなか理解することができなかった。当サイト卓話室Uシリーズ8(5頁)やシリーズ10(4頁)でもその事に言及したが、封建制度にどっぷり浸かっていた一人として、他の日本人使節たちの「議員とは結局、役人の一種」という程度の認識から福沢の理解もそう遠いところになかった。余談になるが、最近見たイギリスBBCのドキュメンタリー番組の中で、クレムリンにあるロシア下院議事堂の前を通るロシア国民は、そこは「議員がプーチン氏の意向を承る場所」である、と理解しているという解説があった。一方、明治維新前に前述のような体験をした福沢は維新後には自らの持論として「衆心発達論」を高々と掲げた。『学問のすゝめ』や『文明論之概略』等々によって委曲を尽くし、口をすっぱくして「国民の智徳の向上」すなわち「日本国民の封建的メンタリティー排除」を目指して、大車輪の啓蒙活動に終始したのが福沢諭吉の生涯であった。

江戸城田安門から見た千鳥ヶ淵
 他方、勝はサンフランシスコを出港して日本に帰る時から既に前ページでも述べたように、日米国民の政治意識の差は50年や100年では追い付かない距離にあることを悟り、肚を括って戻ってきたのではないか。14代将軍家茂の前で、幕府海軍創設に要する年数を聞かれて500年と答えた冷徹犀利な勝海舟は、ことによると帝国主義列強に蹂躙されるまで、日本国民の政治意識に質的変化は起こらないと踏んでいたのではないか。日本国民の政治意識のレベルが「議会」とか「議会政治」に対応できるようになるには、なお10年や20年ではない相当の時間と幾つかの政治プロセスを経なければならない、と勝は認識していたと思う。だが、明治政府当局者には先を急がねばならない切迫した事情があった。我々は今、「明治維新」という言葉によって、1868年には日本国の全てが改まったようなイメージを抱きがちであるが、「本質的なもの」は何も変わらず、前述の福地源一郎(桜痴)がその年創刊した『江湖新聞』紙上で主張したように、権力が徳川から薩長に移っただけの「維新」でもあった。そして明治の40年間は結局のところ、幕末に列強から押し付けられた不平等条約による「日本国の惨めな半植民地状態」を脱する為の40年間であった、とも言えよう。明治政府は「鹿鳴館」では効き目がないことを悟り、不平等条約を改正して貰う為のお体裁つくりの目玉として議会(帝国議会)を設置したが、これも効き目はなく、結果として、帝国主義列強と同じ態度(軍事力の誇示)をもって支那、朝鮮に臨み日清戦争後の明治32年に至ってようやく半植民地状態(関税自主権を奪われ、領事裁判権を認めるという状態)を脱するに至った。
 「本質的なもの」とは何か。それは日本国における人と人との関係、その行き着くところの人々の「政治意識」の問題であり、治める(立場に立った)者と治められる(立場に立った)者との間のルールである。而して「依らしむべし、知らしむべからず」という大昔からの統治方針がルールとして基本的にまかり通ってきたのが今日までの日本国である。その基本方針ないしは基本態度をテレビドラマに於ける「助さん、格さん」のように、両脇からしっかりと支えたのが再三言及した「権威主義」と「事大主義」であった。

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