丸屋 武士(選)
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江戸城「大奥跡」に咲き競う三本の桜
 徳川幕府は、この不毛の(?)大会議の1ヶ月後の1862(文久2)年9月、海軍将校の養成と西洋式軍艦建造をオランダに依頼し、当サイト卓話室Uシリーズ11で言及したように、榎本武揚ら優秀な「幕臣」を選抜して留学させた。4年余りハーグの海軍兵学校やライデン大学で研鑽を積んだ幕臣達は、オランダ人将校の指揮下に新造船「開陽丸」を日本に回航して帰って来た。帆走が主であったが風のない時には蒸気機関を用いての航海も体験したようである。そういう流れの中で文久3年、軍艦奉行勝の提案(建言)によって幕府は神戸海軍操練所を設置したが、その近くの「海軍塾(勝塾)」には坂本龍馬や陸奥宗光あるいは薩摩藩の伊東祐亭ら多様多彩かつ有能な人材が集まっていた。これが徳川幕府幹部(幕閣)を警戒させ、その他幕閣の気にいらないことがあって1864(元治1)年11月、勝は解職され寄合となって家に籠った。日本国にとって、なんとも幸運なことには御役御免(免職)になる直前の1864年9月11日、勝は初めて西郷隆盛と会っていた。この会見について西郷は大久保利通に次のような手紙を送っていた。「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候ふ人物にて、最初うち明け話にて、差し越し候ところ、トンと頭を下げ申し候。どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。まず英雄肌合ひの人にて、佐久間(象山)より事の出来候ふ儀は、一層も超え候はん。学問と見識においては、佐久間抜群のことに御座候へども、現事に候ふて、この勝先生とひどく惚れ申し候・・・」。

江戸城北桔橋(きたはねばし)門外からの眺め
 その勝先生は、いわゆる旗本寄合席となって1年半閉門蟄居していたが1866(慶應2)年5月、再び軍艦奉行に任命され、幕府に代わって日本の支配権を握ろうとする長州藩、薩摩藩等との折衝の矢面に立たされた。そうこうするうちに、慶應3年12月22日、大阪湾にある徳川幕府の最新鋭軍艦、オランダ渡来のあの「開陽丸」の艦長榎本武揚から勝に密書が届き、京都朝廷における倒幕蜜勅の動き、将軍慶喜に辞官納地を命ずる策謀等について知らせて来た。翌日、勝は登城して海軍総裁稲葉兵部大輔に進言したところ、「そこもとの申したつる所は頗る善いが、役人たちがそこもとを嫌って薩・長のスパイではないかと疑っている。そこもとを免職すべきだとさえ云っている。暫く時の至るのを待つがよい。」と言われた。さすがの勝もこれで切れて、退職を願い出ると共に、「海舟狂夫」と署名した「噴言上書」を書いて差し出した。それまでの生涯において、目的を達するためには超人的な努力と忍耐力(根)を発揮してきた勝は一面では癇癪もちでもあり、ついに勝は癇癪玉を破裂させたのである。怒った勝は本心、本音を吐露して、とうとうジョージ・ワシントンを引き合いに出した。「・・・それ政府は、全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富饒にし、奸を押え、賢を挙げ、国民その向うところを知り、海外に信を失わず、民を水火の中に救うをもって真の政府と称すべし。たとえば華聖(ワシントン)氏の国を建つるがごとく、天下に大功あって、その職を私せず、静撫よろしきを失わざるは、誠に羨望に堪えたり。威令の行われざるは、私あるを以てなり。奸邪を責むる能わざるは己、正ならざればなり。あにただ兵の多寡と貧富に因らむや。この故に言う、天下の大権は一正に帰すべしと。・・・」
 勝を嫌い、勝の罷免を要求してブツブツ言っていた幕府役人や大多数の人々(勝の家族さえ含まれる)が形成する「世論」ないしは「民意」あるいは「国民感情」の底流をなすものは「俗は俊異を悪み、世は奇才を忌む」という社会現象であり、封建制度(門閥制度)という因襲の真っ只中で、「政権を私(わたくし)しなかったジョージ・ワシントン」を引き合いに出し、「社会正義」そして「公(おおやけ)」という概念を前面に打ち出した勝海舟は、真の「俊異卓抜」、一代の英傑であった。当コーナーのシリーズ12(5頁)で言及したが、元経団連会長土光敏夫氏の母堂土光登美女史が昭和17年、70歳の老躯を駈って(香典を前借りして)各種学校「橘女学校」を設立したのは、「低劣な世論」、「愚劣な国民感情」が国家を滅ぼすことを防がんとしてであった。

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