丸屋 武士(選)
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済々たる多士
(中略)
 他方面から講道館に試合に来たものには大したものはなかったが、さすがに警視庁には全国から大家を集めただけに、ここには、相当あなどるべからざる相手も少なからずおった。しかし、投技においてはほとんど恐るべきものがなかった。ただ、ねわざにかけて講道館のものを相当苦しめたものがおった。のちになっては研究をつんで、恐れないまでになった。ここに警視庁における試合について特記すべきことがある。それは揚心流の戸塚門下のものと、講道館のものとの試合である。
講道館覇を唱う
 幕末当時の柔術家で、日本第一等強い門下を持っていたのは戸塚彦助であった。維新後になっても、なお当時の名人が残っており、戸塚彦助本人もまだ達者であり、その後継者の戸塚英美もおって、その手に育てたもののうち、なかなか技の秀でたものがあり、千葉県に本拠を据え、斯道に覇をとなえていたのだ。明治二十、二十一年頃になって、講道館の名声が知れ渡るにつれて、警視庁の大勝負となると、自然戸塚門と講道館と対立することとなる。二十一年頃の或る試合に、戸塚門下も十四、五名講道館からも十四、五人、各選手を出したとおもう。その時四、五人は他と組んだが、十人程は戸塚門と組んだ。
 戸塚の方では、わざしの照島太郎や西村定助という豪のものなどがおったが、照島と山下義韶とが組み、西村と佐藤法賢とが組合った。川合は片山と組んだ。この勝負に、実に不思議なことには、二、三引分けがあったのみで、他はことごとく講道館の勝となった。講道館の者はもちろん強くはなっていたが、かほどの成績を得るほどまでに進んでいたとは自分は考えていない。全く意気で勝ったのだと思う。実力は戸塚もさすが百錬の士であって、たやすく下風につくものではなかった。さきに言う通り、維新前では、世の中で戸塚門を日本第一の強いものと認めておったのだ。しかるに、この勝負があってから、いよいよ講道館の実力を天下に明らかに示すことになったのである。
 この勝負ののちのことであったと思う。当時戸塚は、千葉県監獄の柔術の教師をしていたそうだが、時の千葉県知事船越衛の命を受けて、高弟西村定助を同伴して、講道館の教育の方法を視察にきたことがある。いろいろ説明してのち、西郷が誰かを相手に乱取をしているのを見て、戸塚英美は評して「あれが名人というのでしょうな」といったことを記憶している。その評を聞いて大いに満足した。
 幕末には、戸塚といえば柔術の最大権威であった。天神真揚流の自分の師匠も、起倒流の名家飯久保先生も、戸塚一派とは幕府の講武所においてしばしば戦って苦しめられ、戸塚には強いものがおったということを聞いていたのであるから、自分が育てた西郷の稽古を見て、今日の戸塚の代表者から、そういう評を聞いた愉快というものは、譬えることの出来ぬほどであった。そのことは、当時はもちろん、その後も余り多く他人に語らなかったが、今日まで深く記憶に残っている。
(2004年8月)
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